2020年08月01日

三国志 黄巾の乱の鎮圧 皇甫嵩らが広宗を囲む間に張角は病死、張宝が戦死、広宗は陥落し、反乱は終結する

 皇甫嵩が広宗を囲んでいる間に、もともと病で体調を崩していた張角は病死しました。彼の神通力は自分には何の効果もなかったようです。反乱は、張角の弟で、地公将軍を自称した張宝が反乱を引き継ぎます。

 しかし、皇甫嵩の猛攻により人公将軍を称した張梁は戦死し、10月には広宗が陥落して地公将軍の張宝も戦死しました。勝利した官軍は張角の墓を暴き、死体の頭を断ち、首を洛陽に送りました。こうして、黄巾の乱は幕を下ろしたのです。

 反乱が終われば、論功行賞が待ちます。

 黄巾の乱鎮圧の最大の功労者、皇甫嵩は左車騎将軍に任じられ、朱儁は鎮賊中郎将となって西郷侯に封じられました。

 2人の将軍位を見ると、その報奨の違いが明らかですね。車騎将軍は雑号将軍とはいえ、大将軍に次ぐ高い位です。それだけではなく、皇甫嵩は冀州の牧を兼ね、槐里侯に封じられたのです。その声望は他を圧するものとなったのです。

 皇甫嵩の部下の閻忠は皇甫嵩の権威が随一のものであることを指摘し、皇甫嵩に今以上の権力を握るよう、焚き付けます。それ以上の地位とは何でしょうか。大将軍?いえ、そんなチンケな地位ではありません。彼はあえて、天下をも得られるような貴重な機会を握りながら、みすみす失い、そして身が滅んだ韓信の名を挙げて皇甫嵩の決断を促したのです。即ち、閻忠が皇甫嵩に得させようとしたのは、帝位に他なりません。

 閻忠が描いたシナリオは、冀州で兵を挙げて宦官を誅滅して天下を心服させ、そして愚鈍な主君・霊帝を廃して皇帝になれ、というものです。

 この助言で興味深いのは、高官たちの間で霊帝がどうしようもない無能な主であることが共有されていたことだけではなく、どのようなことがあっても漢王朝に忠義を示すべきである、という儒教的な価値が失われていたことでしょう。それだけ、後漢の支配体制が衰えていたということです。


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2020年08月02日

三国志 反乱鎮圧の論功行賞 トップの皇甫嵩は左車騎将軍に任じられたのを始め、朱儁、曹操、孫堅らが功績に報いられる

 しかし、皇甫嵩は自分が凡才であることを理由に閻忠の進言を退け、漢の忠臣として生きる立場を明確にしました。皇甫嵩の決意がどのような未来を彼にもたらすのかは、また後に見ることになるでしょう。

 さて、黄巾の乱鎮圧の功績に報いられたのは2人だけではありません。

 まずは孫堅を紹介しましょう。朱儁のもとで孫堅は獅子奮迅の働きを見せます。汝南から潁川にかけての賊が宛に逃げ込むと、孫堅は自ら城の一方の攻撃に参加し、他の軍に先駆けて城壁を越えて城内に入り、賊を大敗させています。

 朱儁は孫堅の活躍を詳しく記して上奏したので、孫堅は別部司馬に任じられました。

 また、曹操は済南国の相となっています。済南国には10余りの県があり、その多くは貴族や外戚に媚びへつらい、汚職が横行していました。曹操は上奏して汚職官吏の8割も免職にさせ、淫祠邪教を禁止したので、悪人は逃亡して人々は襟を正しました。特に、景王劉章を祀る祠は600余りもあり、祭祀を理由に民衆は何度も多額の資金を供出させられていました。淫祠邪教の禁止とはこのような対応を指し、民衆は大いに助かったそうです。

 後に東郡の太守を命じられますが、病気を理由に郷里に帰ることになります。

 そしてもう1人、忘れてはならない者がいます。皇甫嵩や朱儁、いえ、孫堅と比べても圧倒的に見劣りする人事ですが、涿郡涿県出身の劉備、字は玄徳なる者が鄒靖の下で功績を上げ、中山郡安喜県の尉に任命されていました。

 ここで劉備についても見ておかなければならないでしょう。

 劉備は字を玄徳といい、前漢の景帝の子、中山靖王劉勝の子孫を自称しています。三国志蜀書によれば、この劉勝の子の劉貞が涿郡の陸城亭侯に封じられたのですが、祭祀のための資金の献上額が少なかったことから侯の位を失い、そのまま涿郡に住むようになったそうです。


正史 三国志〈5〉蜀書 (ちくま学芸文庫) - 陳 寿, 裴 松之, 井波 律子
正史 三国志〈5〉蜀書 (ちくま学芸文庫) - 陳 寿, 裴 松之, 井波 律子


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2020年08月03日

三国志 劉備 父を早くに亡くし、わらじを売ったりむしろを編んだことが史書に残る劉備の幼少時代 叔父の資金で同郷の盧植に学ぶ

 まあ、中山靖王の劉勝といえば女色に耽ったことで有名で、子は50人を超えたという人物ですから、またなんとも都合の良い人物を先祖に設定したものだ、との見方も可能でしょう。これを劉備の欺瞞と見るか、何の後ろ盾も無い人物が窮余の策として権威付けに使ったとするかは意見が分かれるかもしれません。

 劉備の祖父の劉雄は孝廉に推挙されて県令になったとのことですが、父の劉弘は早くに亡くなったため、劉備は母とともにわらじを売ったりむしろを編んだりする苦しい生活を送っていました。一言で言えば、一般人だった、ということです。

 それでも、家の南東の隅にある桑の木が小さな車の幌のように見えることから、「俺は将来この木のような羽飾りのついた蓋車に乗ってやるんだ」と大言壮語していました。羽飾りのついた蓋車とは天子の乗る車のことですから、非常に危険な発言です。叔父の劉子敬は聞きとがめ、「滅多なことを言ってはならぬ。一族を滅ぼすぞ」と叱ったそうです。

 15歳のとき、叔父の劉元起に援助を受け、劉元起の子の劉徳然とともに盧植の弟子となります。劉元起の妻はなぜ別の家に分かれているのに劉備に目をかるのかと聞くと、劉元起は「一門の中でもこの子はなみの人間ではないからだ」と答えました。

 盧植もまた涿郡出身で、8尺2寸(195cm)という偉丈夫です。馬援の従孫の馬融に師事して儒学を学んでいます。よく古今の学に通じ、意味を深く追求して章句に拘らなかったというので、相当なインテリですね。馬融は多くの女性に歌い舞わせますが、出仕すると九江の蛮族討伐に赴きましたが、病のために故郷に帰り、儒学の古典である尚書や礼記についての著述をしたり、近隣の若者に教育をしていました。

 有名な学者に学び、太守にまで出世した人物が私塾を開いたのですから、学問の面からも人脈形成の面からも、多くの者が盧植の下で学んでいました。そうした兄弟弟子の中に、遼西出身の公孫瓚がいます。劉備は公孫瓚と親しく付き合い、公孫瓚の方が年上だったことから兄として仕えたと史書は記します。


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2020年08月04日

三国志 関羽 読書を好まずドッグレースや音楽、服飾に関心を寄せた劉備の学生時代と、その頃から劉備に従った関羽について

 もっとも、劉備は「読書がそんなに好きではなく、犬・馬・音楽を好み、衣服を美々しく整えていた」とあります。犬というのは犬を愛でることではなく、ドッグレースのことですから、今風に言えば賭け事と音楽に熱中していたということで、勉強せずに遊び呆けていたことになりますね。

 一方で、口数は少なく、よく人にへりくだり、喜怒を顔に出さず、好んで豪傑と親しんだため、多くのものが劉備に近づきました。中山の大商人の張世平や蘇双も劉備を見込み、多くの財貨を与えました。劉備はその資金をもとに仲間を集めたそうです。黄巾の乱が始まると、州や郡はそれぞれ義兵をあげました。劉備は先の資金で集めた仲間を連れて義兵に参加し、鄒靖の指揮下に入ったことになります。

 ちなみに、三国志演義では、鄒靖は幽州刺史の劉焉の命で義兵を集める高札を立て、それを見た劉備が義兵に応じたことになっています。また、関羽、張飛と桃園で義兄弟になる誓いをしているのですが、正史にはこの誓いについては見ることができません。

 関羽伝には「先主(劉備)が故郷で徒党を集めたとき、関羽は張飛とともに、彼の護衛官となった」とありますので、関羽、張飛がこの頃から劉備と行動を共にしたことは間違いありません。また、劉備は2人と同じ寝台で休み、兄弟のような恩愛をかけたそうですし、護衛官として客人がいるような席では1日中側に立って守護したそうですから、特別なつながりがあったことは間違いないでしょう。

 関羽は字を雲長(もとの字は長生)といい、河東郡解県出身ですが、本籍から出奔して涿郡に来ていました。

 出身地である解県は塩の産地であったことから塩商人たちが「関羽も塩商人だった」として関羽を神格化していく中で、関羽は元は塩商人だった説が生まれたり、関羽が関帝として祀られていくことにつながっていますが、三国志関羽伝には出奔前についてそれ以上の情報はありません。出奔するくらいなので、殺人などの重罪を犯したと見られますが、塩の密売だったのかもしれません。


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2020年08月05日

三国志 黄巾の乱前の「3兄弟」 黄巾の乱前の物語はほぼ全て創作だが、宦官の悪政や董卓の性格に触れている点で物語としては素晴らしい

 張飛は字を益徳(演義は版によっては翼徳としますが、実際は益徳が正しいようです)といい、劉備と同じく涿郡出身です。関羽よりも数歳年下だったため、関羽を兄として仕えており、関羽と共に劉備に従うようになっていました。

 三国志演義ですと、劉備と張飛が遭遇し、その縁で関羽と張飛が劉備の元にやってくることになるのですが、その筋書きは怪しいようです。

 演義と正史の違いについて、少々次代を遡って見てみます。劉備が黄巾の乱鎮圧に参加したのは幽州刺史劉焉の徴募に応じたからですが、劉焉は幽州に赴任したことがありません。劉焉と同じく皇室に連なる劉虞が幽州刺史だったそうなので、このあたりは完全に演義の創作か、劉焉と劉虞を間違えたかのどちらかです。

 また、演義では劉備は太平道の工作員として洛陽に潜り込んだ馬元義と遭って、太平道が匈奴と結んでいるなどとの話を聞き出しているのですが、上述の通り、宦官への内応工作が密告によって露見して馬元義が処刑されたことで反乱が時期を早めて勃発した流れを考えれば、黄巾の乱勃発後に劉備と馬元義が遭遇していたはずがありません。また、匈奴は既に弱体しており、黄巾賊と連合していたとは考えにくいようです。

 演義では劉備は黄巾賊との戦いに転戦してそれなりに活躍を見せたり、檻車に収監されて洛陽に送られる盧植を見て憤りを発したり、董卓を助けたのに莫迦にされたりするのですが、このあたりも史書には記録がありません。

 ただ、物語として見ますと、劉備が護送されている盧植に会うシーンを入れることで宦官の腐敗をうまく説明してると思いますし、董卓の驕慢な性格も感じられるようになっていて、ストーリー展開は見事だと思います。匈奴については、三国志演義が流行したのは漢民族の王朝が長江以南に押し込められて中原には異民族の王朝があった時代ですから、黄巾の乱がなぜあれほど大規模なものになったのかの説明に外国勢力を置いたことは当時の人々にはリアリティがあったのかと思います。

 三国志演義は物語として筋のよく練られたものだと痛感します。


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