2020年07月01日

後漢 反董卓連合軍結成 190年正月、東郡太守の橋瑁が3公の文書を偽造して各地に反董卓の檄文を送ったことを機に、連合軍が結成される

 189年10月、何皇后を葬ると、翌11月に董卓は自ら相国となります。

 政治のトップは3公、則ち太尉、司徒、司空でしたね。そのいずれでもない相国という称号は、前漢の建国の功臣の中でも序列ナンバー1とされた蕭何が任命された職位でした。蕭何の後は曹参、そして呂氏が力を握った際に呂后の甥の呂産が就任して以来、誰もその地位に就くことができなかった地位です。なにせ、暗に蕭何、曹参と同じ功績がある者しか就けない役職になっていたのですね。

 12月にはその下の3公として、太尉に黄琬、司徒に楊彪、司空に荀爽を据えます。

 190年正月に、東郡太守の橋瑁が3公の文書を偽造して各地に反董卓の檄文を送ると、それに応じた諸侯が軍をあげ、連合して董卓を討とうとします。反董卓連合軍として知られる同盟です。

 冀州牧の韓馥、豫州刺史の孔伷、兗州刺史の劉岱、河内太守の王匡、陳留太守の張邈、東郡太守の橋瑁といった諸侯らに加えて、ビッグネームとして誰からも尊崇を集めたのが後将軍の袁術と渤海太守の袁紹です。彼らの一族は何代にも渡って3公を輩出した名族として知られていました。袁紹は西園8校尉の実質的なトップの中軍校尉(上軍校尉は宦官で小黄門の蹇碩)に任じられており、何進にも仕えて反宦官の動きで中心的な働きをしていました。

 袁紹と同じく西園8校尉の1つ、典軍校尉だった曹操や、黄巾の乱鎮圧に活躍した孫堅らも参加しました。董卓に反旗を翻した勢力範囲はもっぱら函谷関より東でした。董卓はその出身で軍事的活動で縁のあった地域はがっちり押さえていたことになります。

 関東での反乱に対し、董卓はまず弘農王に落とされた劉辯に自殺を強要します。

 董卓は劉辯を閣に上げると、郎中令の李儒に命じて毒を運ばせ、「この薬を服用すれば悪いことから避けられますぞ」と言って飲ませようとします。劉辯は「私は病を患っておらぬ。これは我を殺そうとしているのであろう」と言って飲むことを拒否しました。董卓は無理強いします。


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2020年07月02日

後漢 少帝辯の死 劉辯は自殺を強いられ、妻の唐姫や宮人に別れを告げて毒を飲む 董卓は都を洛陽から長安に移し、太師を自称する

 劉辯は妻の唐姫と宮人を集め、最後の酒宴を開きました。酒が巡ると、劉辯は「天の道は易きも、私の道はなんと苦難に満ちていいることか。天子を廃され王となり、藩を守るも悪逆な臣下に迫られて生き延びることすら許されぬ。お前のもとをさり、冥界へ行こう」と嘆き、妻を立たせて舞わせました。

 唐姫は「皇天は崩れ、后土は頽(くず)れ、身は天子となられても命はくじかれました。死と生は異なるものなるも寄り従うとは言いますが、私は孤独で心中の悲しみをどうしたらよいでしょう」と歌うと、嗚咽を漏らしました。

 劉辯は唐姫に、「そなたは王者の后であるから、役人や民と再婚はしないであろう。自愛するように。これで、永久の別れだ」と言うと、毒を飲んで死にました。享年、18という若さでした。

 なお、唐姫は夫の死後に実家へ帰ります。父は唐姫を再婚させようとしましたのですが、彼女は肯んじずにいました。後に李傕に略取されましたが、妻にしたいという李傕の申し出を断固拒否します。尚書の賈詡が彼女のことを知り、献帝に伝えたことから、献帝は彼女を園陵に配属させて弘農王妃とすることになります。

 一方、諸侯連合はそれぞれが数万の兵を率いていたとはいえ、全軍が合同して統一された指揮のもとにあったわけではありません。集合したのは軍勢の一部で、しかも誰も先頭に立って董卓と戦おうとはせず、会議と酒宴に明け暮れるばかりでした。

 2月、董卓は長安を首都にすると決め、洛陽の人々を長安に移しました。長安に至った董卓は太師となり、尚父と号します。軍事力を背景に力を振るう董卓に、誰も反対などできませんでした。

 反董卓連合では、袁紹らが動こうとしないことに業を煮やした曹操や張邈、鮑信らが西に向かって董卓を追います。連合軍は滎陽において董卓が関東に残した徐栄に遭遇し、大敗してしまいます。曹操自身も矢傷を負うという敗北で、彼らは連合軍から離脱することになります。ただ、徐栄は曹操らの戦いぶりをみて酸棗攻撃は諦めています。


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2020年07月03日

後漢 董卓の貨幣改革 董卓は銅銭と銅像を鋳潰して、肉や孔および輪郭も定かでない、また研磨もしていないきわめて粗悪な銭を大量生産する

 6月、董卓は5銖銭を毀ち、小銭を鋳します。5銖銭とともに銅人を鋳潰して、従来よりも小さな小銭を大量に作りました。董卓小銭と呼ばれるこの貨幣について、『貨幣の中国古代史 (朝日選書) - 山田 勝芳』はこう記します。

この小銭は、通常の鋳銭で使われる正・裏の2つからなる双範ではなく単範で作られ、直径5分(1.15センチ)で、銭の銘文がなく、肉や孔および輪郭も定かでない、また研磨もしていないきわめて粗悪なものであった。かろうじて方孔円銭の形態をとってはいるが、銅屑の塊のような悪銭であった。


 民間では5銖銭を打ち抜いて内側を剪輪銭として使用しました。董卓小銭はその剪輪銭よりも劣悪だったというのですから実に救えない話です。

 価値の低い貨幣が大量に市場に出回ったことで、貨幣価値は大幅に下落します。董卓以後、銭貨が流通しなくなるほどの改悪でした。とりわけ穀物の値段は高騰し、1石あたり数百万銭にまで上昇しました。

 悪銭は凄まじい量が生産されました。許昌で、魏の時代に地中に掘った穴に貯蔵された大量の銭が発見されました。良銭は4%ほどで、残りは全て悪銭だったそうです。

 秦漢時代、高額取引には銭を100枚あるいは1000枚単位でくくって使っていました。董卓小銭は従来の銭数枚程度の価値しか無かったと見られるので、これ以降は100銭単位にくくることが基本になりました。貨幣経済は崩壊に追いやられたのです。

 経済の破綻は、あるいは軍事的に董卓が敗北すれば早期に終息したかもしれません。しかし、同年中には徐栄は孫堅や王匡も破り、反董卓軍の接近を許しませんでした。董卓を恐れて動けない反董卓連合内部では、袁紹や韓馥らが劉虞を皇帝として擁立しようとの動きをみせます。しかし、この動きは劉虞本人や袁術、曹操らの反対にあって潰えることになりました。

貨幣の中国古代史 (朝日選書) - 山田 勝芳
貨幣の中国古代史 (朝日選書) - 山田 勝芳



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2020年07月04日

後漢 洛陽破壊 董卓軍が孫堅に敗れたことを受け、董卓は洛陽を焼いて長安へ逃げ戻る 連合軍内では劉虞擁立を巡って対立が深まる

 191年2月、反董卓連合軍側が動きます。すなわち、袁術の支援を受ける孫堅が梁県の陽人に駐屯したのです。

 董卓は大督護の胡軫や騎督の呂布を派遣しました。胡軫と呂布は不仲で、呂布に騙された胡軫は突出したところを孫堅に破れます。孫堅はその後も董卓との戦いを優位に進め、孫堅の進撃に脅威を感じた董卓は洛陽を焼き払い、長安に撤退しました。孫堅は廃墟となった洛陽に入り、皇帝たちの陵墓を修復しました。

 三国志演義ですと、この際に秦から伝えられていた伝国の玉璽を見つけたとされます。伝説によれば、伝国の玉璽は「完璧」の言葉を生み出す契機となった和氏の璧(この逸話については戦国時代に触れておりますので、興味のある方は藺相如1藺相如2藺相如3を御覧ください)

 都市には食料生産機能はありません。そして、廃墟になった都市に食料を運ぶ者もありません。廃墟になった洛陽に留まっても食料不足に陥ってしまうだけで何の益もないため、孫堅は魯陽に撤退しました。

 この際、伍孚が董卓を暗殺しようとしましたが、董卓の膂力にねじ伏せられて失敗、董卓は無事に長安へ戻ります。

 反董卓連合では、このころから勢力争いが激しくなります。その対立がはっきり現れてきたのは袁紹らの劉虞擁立計画で、劉虞を推す袁紹を一方の、それに反対した袁術をもう一方の雄として対立が深まります。4世に渡って3公を輩出した袁一族が新世代のリーダーとされていたことが分かりますね。2人は仲が悪く、袁術は妾腹の子(異なる説もあります)の袁紹を嫌っており、諸侯もまた袁紹、袁術のどちらに付くかという派閥争いに組み込まれていくことになります。

 両者の決別を決定的にしたのは、袁紹が周喁を豫州刺史に任命したことです。その時の豫州刺史は袁術側に立つ孫堅でした。両陣営は豫州を奪い合い、また反董卓連合軍内のリーダー同士が殺し合うなど、連合軍は崩壊していきました。両陣営はこの後、袁家の2人を中心に、各地に割拠して勢力争いに明け暮れるようになります。


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2020年07月05日

後漢 董卓暗殺 司徒の王允、尚書僕射の士孫瑞、呂布が中心となって董卓とその一族を皆殺し、新政権のトップには王允が就任する

 董卓は根拠地の郿に堅城を築き、大量の財宝や30年分の食料を溜め込み、「天下を保てなくともここに入ればなんでもできよう」などと嘯く有様でした。

 192年もまた波乱の幕開けでした。正月、袁術の命で襄陽の劉表を攻撃していた孫堅が戦死したのです。孫堅は黄巾の乱鎮圧や涼州の反乱対応で大きな力を発揮した人物ですから、袁術陣営は大きなダメージを受けることになりました。孫堅の長子の孫策は一族を率いて袁術の下へ身を寄せました。

 関東で諸侯どうしが潰し合いをしている中でも、董卓政権は世情の安定化になど務めませんでした。董卓は宴会を行う際に、生きたままの捕虜から舌を引き抜いたり目をえぐったり、四肢を断ったり、熱湯で煮殺したりさせ、周囲の者が青ざめているなかで平然と酒を飲んでいました。関東の兵は、イノシシの油を塗った布を身体に巻いて火をつけ、足から徐々に燃やしていったこともあります。また、袁紹の配下の豫州従事の李延を捕えて煮殺したり、お気に入りの外国人が寵愛を良いことに罪を犯して司隷校尉の趙謙に殺されると、「愛犬が叱責されても腹が立つのだ、まして人間を殺されたとなるとな」といって、鞭で打ち殺させました。

 恐怖政治に怯えた人々の思いは、同年4月に董卓を暗殺する形で結実します。

 暗殺計画の忠臣となったのは、司徒王允、尚書僕射の士孫瑞、そして呂布です。彼らは献帝の病が癒えた祝いに百官が集う際に、まず董卓を斬り、そして一族を皆殺しにしました。董卓の一味と見られた者もまた、獄に送られ、殺されました。主簿の田景などは董卓の遺体に駆け寄ったというだけで殺害されています。

 董卓排除後には、暗殺計画の中心人物だった王允が首班となって新たな政権が生まれます。王允が寛大な政治を行えば、あるいは結果が異なったものとなったかもしれませんが、彼は潔癖主義が過ぎました。王允は董卓と親しかった者を全員粛清しようとしたのです。



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