2020年06月01日

後漢 桓帝の死 桓帝が36歳で死去すると竇皇后は桓帝の寵愛を得ていた田聖を殺害する

 また、この時に涼州の3明として知られる皇甫規は、自ら「自分は党錮である」と主張しています。皇甫規は安定出身で、祖父の皇甫稜は度遼将軍、父の皇甫旗は扶風都尉と、匈奴との最前線で働いてきた家の生まれです。直言の士故に多くの挫折を経験しながら対匈奴戦線で硬軟両面で成功を収めています。

 その過程で梁冀を批判したり、仕事を罷めたいのに宦官の嫌がらせで罷められなかったりしたと、硬骨漢ぶりを発揮しました。それでも罷めさせてもらえず、かといって傍に置いておけば煩かろうということで、朝廷では皇甫規を護羌校尉に任じて西方に追い払われました。後に、174年に洛陽に戻る途上で亡くなります。それまで戻してもらえなかったわけですから、直言の士という存在が腐った上層部からはどれほど嫌われるかの好例かもしれません。

 168年、桓帝が死去します。享年、36でした。

 桓帝の棺がまだ葬られないうちに、竇皇后は桓帝の寵愛を得ていた田聖を殺害してしまいます。史書に忌忍(嫉妬深く残忍)と記されるだけのことはありますね。彼女は他の貴人たちも殺害しようとしたのですが、中常侍の管覇と蘇康らが諌めたため、殺害は諦められています。

 論に、「桓帝は音楽を好み琴や笙(しょう;笛の1種)をよくし、木蘭を飢えた宮殿を構え、華蓋でブッダと老子を祀ったが、これは国が滅ぶ前兆であろうか。梁冀を誅殺し、刑罰の権限(威怒)を取り戻したが、天下はなお、そのおだやかなことを望んだ。しかしながら、単超ら5人の悪人たちは梁冀の暴虐ぶりを受け継ぎ、天下は害毒に満ちた。忠実で賢明な李膺や陳藩たちはしばしば上書して宦官の姦謀を挫かんとし、桓帝は李膺らを用いて簒奪・弑逆を免れることができた」(大意)とあります。音楽と信仰には熱心でも、宦官に頼った皇帝の治世は外戚と宦官の暴政により、人びとには苦しい時代だったと総括できそうです。


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2020年06月02日

後漢 霊帝即位 12歳の劉宏が即位し、外戚の竇武と太傅の陳藩が尚書のことを司る

 また、賛には「桓帝は傍系から天子の地位に登った。政治は5人の寵臣に移り、李固や杜喬が刑死するなど、過酷な刑罰がみだりに行われた。後宮の女性は大勢いたが、皇子には恵まれなかった」とし、やはりその治世が良いものではなかったとしています。

 即位してからは梁冀の影に怯え、梁冀を誅殺しても宦官に頼るしか無かった桓帝には同情の余地はああると思います。それでもやはり、彼のような類の人物を、絶対的な権力者にしてはいけないのでしょう。

 その治世にも問題がありましたが、36という若さで、しかも跡継ぎを残さずに死んでしまったこともまた、問題でした。

 竇太后は、その父で城門校尉の竇武と善後策を検討し、章帝の玄孫に当たる12歳の解瀆亭侯の劉宏(りゅうこう)を擁立します。これが霊帝です。

 宦官と対立した陳藩が太傅となり、城門校尉から大将軍へと昇進した竇武と司徒の胡広が尚書を司ります。

 胡広の家系はそれほど大したものではなかったようです。父の胡貢は交阯都尉になりましたが、家は貧しかったそうです。長じて南郡の下級官吏となります。南郡太守の法雄は子の法真の勧めも受け、胡広を孝廉に挙げました。孝廉に挙げた者が罪を犯すと、推薦した者もまた同じように罰を受けますから、法真だけではなく、法雄もそれなりに胡広を評価していたのでしょう。洛陽に至り、安帝の朝廷に赴いた胡広は、上奏文の評価で天下第一の成績をとり、以後出世を重ねていきます。

 後には梁冀に従い、桓帝の策立にも功績を立てて安楽卿侯に封じられています。梁冀の下で司徒、司空、太尉の3公を歴任するという大出世を遂げています。ということは、梁冀に忠実に従っていたということでしょうね。梁冀が誅殺された際に胡広は太尉でしたが、梁冀を守ることはなく、爵土を奪われて庶人となりました。後に太中大夫、太常を経て司徒に返り咲いていました。そして、霊帝が即位すると録尚書事になったのでした。


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2020年06月03日

後漢 竇武 外戚となっった竇武は昇進を重ねて権力を得るが、身を謹んで賄賂を拒み、党錮の禁も解除させる 竇武の宦官排除計画

 この時、霊帝擁立に功績のあった周景は安陽卿侯に封じられています。周景は忠実な性格で、桓帝の時代に専権を振るった宦官の具?を失脚させたことでも知られていますが、後世の日本では、もっぱら彼の名は周瑜の一族(従祖父)として知られています。

 彼らよりも、何と言っても注目すべきは竇武です。

 竇武は後漢建国の功臣、竇融の玄孫です。若い頃から学問に励み、長安方面で功績をあげています。165年に娘の竇妙が桓帝の後宮に入り、やがて貴人を経て皇后となると、竇武も郎中、越騎校尉と昇進を重ねました。

 梁冀の例を挙げるまでもなく、外戚には絶大な権限が与えられます。桓帝が若くして即位し、梁冀のこともあってろくに政治の経験を積めないままだった中で、もし竇武が竇憲や梁冀同様に権力を壟断しようと思えば、それも可能だったことでしょう。しかし、竇武は身を慎みました。礼として賄賂を受け取ることも拒み、有能な人物を推薦しました。党錮の禁に際しては、桓帝を諌めて党錮の禁を解除させています。

 ただ、桓帝の寵愛はもっぱら采女の田聖らに注がれていたようで、あるいは竇武は立場の弱さを感じていたのかもしれません。

 大将軍となった竇武と、清流派で宦官の専横を憎む陳蕃は結びつき、宦官排除を図るようになります。そうした中で、5月1日に日食が起こります。日食で3公がすげ替えられたように、日食のような異常な事象は政治に欠陥があることを天が示していると考えられていました。竇武たちは竇太后に宦官の排除を求めます。

 竇武や陳藩にとっては、宦官は政治を壟断するばかりの存在かもしれませんが、竇太后からすれば宦官は身辺のあらゆることを世話してれる存在です。後宮から宦官が一掃されてしまえば、後宮のあらゆることが滞ってしまいます。そこで、竇太后は宦官を罰するのであれば、罪のある者だけにして欲しいと伝えました。


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2020年06月04日

後漢 露見 竇武が竇太后に宛てた宦官誅滅の文書はチェック係の宦官から漏れ、宦官たちは霊帝の身を押さえて宮殿の守りを固める

 竇太后の許可を得た竇武たちは権力を振るう中常侍の管覇と蘇康を誅殺します。この両名の名前は、竇太后が桓帝の死の直後に桓帝に寵愛された女性たちを殺害しようとしたのを諌めた者として名前がでてきていましたね。あるいは、竇太后の意趣返しだったのかもしれません。

 竇武たちはこの2人で終わらせる気はさらさら無く、続いて中常侍の曹節誅殺を図ります。

 曹節は魏郡出身で、順帝の時代に小黄門、桓帝の時代に中常侍、皇帝の馬車を司る奉車都尉に任じられて、桓帝が死去すると軍を率いて霊帝を迎えた人物です。中常侍は宦官のトップグループですから、竇武たちに目をつけられても不思議はありません。

 しかし、竇太后は曹節誅殺を拒みました。竇武たちは諦めず、宦官一掃を考えるようになります。陳藩は直ちに行動を起こすことを主張しますが、竇武はことがことだけに慎重に運ぼうとします。

 竇武は長楽尚書鄭颯を捕えさせて曹節や王甫が有罪である旨の証言を得ると、改めて竇太后に宦官誅殺を上書しました。

 上奏文は必ず宦官の手を経由します。長楽五官史の朱瑀は上奏文を盗み見ると、そこには誅殺すべき者のリストの中に自分の名前も記されていることを発見してしまいます。怒った朱瑀は他の宦官たちに竇武の計画を明かしたので、宦官抹殺計画は宦官側の知るところとなったのでした。


 9月、曹節は霊帝を徳陽前殿に移し、勅命を偽って王甫を黄門令に任じます。王甫は兵を率いて宮中へ戻り、董太后から璽綬を奪って南宮を閉ざしました。

 異変を察知した竇武は兵を率いて洛陽城外に駐屯します。

 陳藩は部下や門弟たちを率いて尚書門に駆けつけて抗議しますが、捕えられて獄へ送られ、直ちに殺されてしまいました。

 このような状況の中、張奐が北方から帰還します。

 張奐は安定属国都尉に赴任していた歳、匈奴や東羌の軍7000余りに包囲されたことがありますが、これをわずか200のみかたで防ぎきったことがあります。そして巧みに外交や攻撃を展開して後漢の庇護を受ける国を増やし、異民族相手からも献上物を受け取らないことで心服させていました。こうした功績から匈奴中郎将となり、烏桓や鮮卑相手にも戦功を挙げています。梁冀誅殺に伴って免官されましたが、その後武威太守として復権、度遼将軍に移って幽州や并州を収め、大司農を経て再び護匈奴中郎将となって異民族との最前線で活躍を続けました。


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2020年06月05日

後漢 第2次党錮の禁 竇武は自殺に追い込まれ、宦官側は知識人たちに対して巻き返しに出る

 曹節は帰国したばかりで前後の状況など何も知らない張奐に、竇武が反逆したので討つように命じます。

 天子の御旗と百戦錬磨の名将が宦官側に押さえられた以上、竇武に勝ち目はありません。投降すれば許すと言われた兵士たちは次々と竇武を見棄て、竇武は自害しました。

 宦官たちは竇武に与した者たちを次々と族滅する一方で、竇武の廃滅に功績のあった張奐を大司農に任じ、侯に封じました。しかし、張奐は事情を知らずに竇武を討ったことを悔やみ、職に当たることはありませんでした。

 璽綬を奪われた竇太后は南台に監禁されます。

 竇武の死に始まる宦官紫衣力の逆襲は、竇武ら関係者だけに留まりませんでした。翌169年、宦官たちは巻き返しに出ます。そのきっかけとなったのは、張倹にまつわる事件です。

 張倹は前漢の建国の功臣で趙王に封じられた張耳の子孫で、名士として知られた人物です。彼は165年に東部の督郵となった際、中常侍の侯覧の一族が行っている不正を糺そうと、侯覧の母を処刑する上奏を行います。しかし、この上奏は侯覧に握りつぶされ、侯覧は張倹への復讐を考えていました。

 169年に張倹が下僕の1人を解雇すると、侯覧は動かして霊帝に「太僕の杜密、長楽少府李膺ら鉤党を捕えるべし」との上書をさせます。この時霊帝はまだ14歳で、このような上書を見ても理解できずに「鉤党とはなにか?」と曹節に尋ねます。曹節は「鉤党とは党人のことです」と答えました。

 霊帝は重ねて「党人はどのような悪事を行ってきたのか?」と問います。そして、「党人は朝廷を倒そうとしております」との言葉を聞いた霊帝は、党人の逮捕を認めました。

 こうして宦官に目をつけられていた多くの知識人が党人だとされ、逮捕されました。これを、第2次党錮の禁と呼びます。第2次党錮の禁により100人を超える知識人が殺害され、死を免れた者も禁固刑とされたのでした。



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