2020年05月31日

後漢 党錮の禁 李膺らが中常侍の専横を批判したのに対し、宦官たちは「党人が朝廷を誹謗した」として李膺らを訴える

 官僚、則ち士大夫層は宦官の腐敗に対し、宦官と宦官に阿る者たちを濁流派、それに対する自分たちを清流派と名づけ、対立していくようになります。宦官の現世利益面の腐敗や堕落に加え、宦官という存在そのものが儒家の教えに反している存在として見下していたことから対立は先鋭化していきます。

 翌166年、李膺たちは中常侍の専横を批判し、罪を糾弾します。批判を受けた宦官側は、逆に「党人たちが朝廷を誹謗した」として、李膺を始めとする批判的な者200人あまりを逮捕して終身禁固刑としてしまいました。これを、第一次党錮の禁と呼びます。

 司法を司る役職は大尉でしたね。そして、この時に大尉の地位にあったのは、かつて李膺の部下として活躍した硬骨漢の陳藩です。

 陳藩は李膺らの起訴状が届くと、「彼らは皆、国内で褒め称えられる忠義の臣ではないか。たとえ彼らに罪があったとしても、恩赦に俗させるべきである。罪名すらわからぬ中で拷問にかけるとは、何をやっているのか」と激烈に批判し、起訴を認めようとしませんでした。

 どう考えても、皇帝の名を借りて私利私欲を貪る宦官の方が問題が大きいと思われるわけですが、桓帝からすれば、宦官たちは跋扈将軍梁冀を誅殺するのに身命を賭してくれた恩人に当たります。結局、7月に陳藩は免職され、後任に光禄勲周景が充てられます。

 周景は司空の時代に腐敗宦官の追求に力を発揮した人物でしたね。

 中央には気骨の士がまだ残ってはいましたが、逮捕された党人(知識人たちの自称では清流派)には過酷な取り調べが待っていました。李膺もまた繰り返し取り調べを受けます。この際、李膺は繰り返し宦官の家族に言及します。巻き添えになることを恐れた宦官たちは翌年の167年に李膺を釈放しましたが、出世の道は閉ざされました。

 荀爽は李膺を案じ、節を曲げてでも危難を避けるよう助言する手紙を送っています。


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posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 後漢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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