2020年05月30日

後漢 腐敗を憎むものたち かつての李膺の部下で太尉の陳藩、司空の周景らの抵抗により、具瑗は降格され、左悺は自殺する

 評判を聞いた梁冀に召されましたが、陳藩は使者を鞭打って殺して誘いを拒否し、左遷されています。左遷で済むのか、という話ですけどね。それでも一度中央に戻って尚書となるのですが、直言を嫌われて豫章太守に出されます。その後、尚書令として中央に戻り、大鴻臚へ昇進するも皇帝の不興を買って免職となり、またも召されて選挙を管轄しますが、ここでも権力者に阿らずに免職されます。またまた復帰し、尚書僕射となり太中大夫となります。有能ですが節を曲げずに嫌われる生き方を貫いていたのですね。

 165年、この陳藩が大尉に任じられます。李膺にとっては心強い味方が3公の一角を担うようになったのでした。

 同年10月、司空の周景が地震を理由に免職されています。

 周景は梁冀に招かれ、豫州刺史や河内太守を歴任しています。梁冀失脚に伴い免職されていましたが、周景が篤実であることが明白だったため、呼び戻されて太僕や衛尉を経て、163年には司空に至っていました。

 宦官の専横や不正は既に著しい時期で、特に梁冀誅殺に功績のあった宦官たちは酷いものでした。そのうち、具瑗の兄の具恭は沛国の相を務めていました。具恭の腐敗ぶりは著しく、悪名を馳せていました。

 この165年に周景は太尉の楊秉と共に宦官や官僚の腐敗を上奏し、具恭は不正蓄財の咎で廷尉に逮捕されています。合わせ、具瑗も降格されました。また、同時に左悺とその兄の左称の収奪が奏上され、2人は自害しています。

 彼らは桓帝に対して絶大な功績があったことから巨大な力を持つようになって腐敗を重ねました。ただ、他の宦官たちも多かれ少なかれ不正蓄財に励んでいたそうです。もっとも、益州刺史の侯参は富裕者を大逆罪で誣告し、一族皆殺しにして財産を奪っていたそうですから、腐敗はなにも宦官に限った話ではありませんが。侯参は後に罪は暴かれ、檻車で護送中に自殺しているのがせめてもの救いといえるかもしれません。

 腐敗官僚や宦官の追求を行った周景が転載で免じられたことは、追求される側にはさぞ天佑に見えたことでしょう。


面白いと思ったら押して下さると嬉しゅうございます^^

人気ブログランキングへ
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 後漢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
面白いと思ったら押して下さると嬉しゅうございます^^
人気ブログランキングへブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村