2020年05月29日

後漢 党人 知識人たちは宦官と対峙する李膺を慕う 宦官たちは李膺や太学の学生らを党人と呼び、朝廷を誹謗していると非難する

 中央に戻った李膺は河南の尹(長官)だった159年に、宦官を告発しようとして逆に獄に下されたことがあります。幸いにして無罪を訴える上書があったことを受けて復職した李膺は、宦官にひるまない人物ということで有名となっていました。

 この李膺が宦官を厳しく批判したのです。それだけではありません。宦官で、出世の階梯を登りつつあった張譲(後に宦官としての地位を登り詰める姿を見ることになります)の弟の張朔が強欲で多くの罪を犯してきたことを知ると、張譲の邸宅から張朔を引きずり出して獄へ押し込み、自供を得ると直ちに張朔を処刑してしまったのです。

 宦官たちは李膺を恐れ、外出も憚るようになったと伝えられます。宦官たちは皇帝に対し、李膺が太学の学生らと徒を組んで朝廷批判を行っていると非難しました。このことから、李膺たちは党人と呼ばれます。

 知識人たちからすれば李膺は宦官と対決する急先鋒で、希望の星でした。気骨のある士は李膺を訪ね、叶った者は「龍門に登った」と言われました。龍門とは急流の名前で、竜門を登ったコイは龍になれるとの伝説がありました。その伝説にかけて、李膺のお眼鏡に叶ったら出世できると言ったわけです。これが立身出世の関門を意味する「登竜門」の語源です。また、同じ言い伝えが端午の節句のコイのぼりの起源です。

 そんな李膺に力強い味方が現れます。陳藩です。

 陳藩は汝南出身で、若い頃から天下を論じる気宇壮大な人物でした。一度孝廉となり、郎中になりましたが、母の喪に付すために野に下っています。後に李固の招聘を受けて議郎となり、楽安太守となりました。楽安が属するのは青州で、当時の青州刺史は李膺でした。他の太守たちが李膺を恐れる中で、陳藩だけは堂々と応対していました。



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posted by 仲井 智史 at 13:03| Comment(0) | 後漢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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