2020年05月28日

後漢 李膺 桓帝を扶けた宦官たちには絶大な権力が与えられ、知識人階級はこれに反発する 反宦官の急先鋒だった李膺という男

 単超は桓帝即位翌年の160年に死ぬのですが、残りの4人は大邸宅に美女を囲い(宦官なのに)、一族を高位高官に就けるなど、好き放題を始めました。

 官僚たちからすれば、政界を梁冀に代わって宦官が牛耳っている以外の何物でもありませんでした。

 知識人階級はこれを不満とします。宦官は男性器を無くすことだけが皇帝の傍に侍る唯一の資格で、官僚に求められる学問や素行の良さなど無関係でした。加えて、官僚たちは宦官を人間扱いしていませんでしたから、彼らの風下に立つのは矜持が許さなかったのでしょう。

 特に、李膺は朝廷において、宦官を激しく批判します。

 ここで李膺について触れておきましょう。

 李膺の祖父の李脩は安帝期に大尉にまで上り、父の李益は趙の相という出自です。若い頃から礼法にこだわりませんでした。ただし、そうとな切れ者だったようで、孝廉に推挙されて出仕して青州刺史に任命されると、少なくない部下が逃げ出しています。護烏桓校尉に転じた際には鮮卑が侵入する度に果敢に戦い、鮮卑からも警戒されています。その後に免職となり、故郷に孵った李膺は塾を開きます。彼の名声を慕い、教えを請う者が1000人を越えていたというのですから大変なものです。

 潁川郡の名族荀家の中でも優秀さで知られていた荀爽もまた李膺を面会に訪れ、馭者を任されたたことがあります。荀爽は家に帰って「李先生の馭者を務めたぞ」と自慢したそうなので、どれほど李膺の名声が高かったかが伺いしれます。この荀爽は8人兄弟です。兄弟は皆優秀だったことから、「8龍」と呼ばれておりましたが、その中でもとりわけ荀爽が優秀とされていました。彼の名前は後に甥たちとともに見ることになるでしょう。

 さて、李膺は156年には度遼将軍に任じられ、西域に向かいます。それより前、羌族や疏勒などが後漢に侵入して住民を連れ去っていましたが、李膺の赴任を知ると、住民を返しています。



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posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 後漢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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