2020年05月27日

後漢 梁冀誅殺2 宦官の具瑗らはまず梁冀に送り込まれた張ツを捕縛、動員可能な千人余りの兵で梁冀宅を囲み、梁冀を自殺に追い込む

 8月、具瑗は張ツが反乱を起こそうとしていると言ってこれを捕縛させます。これが梁冀排除計画の始まりでした。桓帝は前殿へ移ると、尚書を集めて謀反が起ったことを宣言、尚書令尹勲に節を与えて尚書郎に武器を取らせました。

 司隷校尉の張彪が1000余人の兵士を率いて梁冀の屋敷を囲み、袁安の孫(梁冀に阿って3公になったとされる袁湯の従兄弟)で光禄勲の袁盱(えんく)が梁冀から大将軍の印綬を取り上げ、現在のベトナムにあたる比景都卿侯に移るよう命じました。中央から遥かに離れた土地へ送るということは、失脚だけではなく、もう未来は無いということです。即日、梁冀と孫寿は自殺しました。

 単超は梁一族のほぼ全員を誅殺し、連座して多くの公卿、校尉、刺史などの高官が多く粛清され、朝廷はほぼ空になったと伝えられます。

 没収された財産を国が競売にかけたところ、その総額は30億銭にもなりました。これを国庫に入れたことで、全国の租税の半分を免じたそうです。それだけ彼が財貨を貪ったというのもあるのでしょうが、後漢書を著した范曄が梁冀を激しく非難する意図も含んでいたことでしょう。彼の悪行が散々書き連ねられているところからも明らかです。

 梁一族追い落としに活躍した単超は新豊県侯、左悺は上蔡侯、徐璜は武原侯、具瑗は東部陽侯、唐衡は汝陽侯に封じられたことから、彼らは5侯と呼ばれました。桓帝にとって、宦官たちは最大の恩人ですから、彼らに絶大な信用を置くようになりました。梁冀の目は朝廷の臣下たちにも向けられていましたから、事実上桓帝が頼れるのは宦官だけでした。梁冀が排除されたからと言って、一朝で桓帝が宦官以外の者と信頼関係を結び、その絶大な権力を正しく使えるようになるわけがありません。必然的に、桓帝は梁一族を逐った後も宦官に頼り続けました。

 そして、宦官たちは手に入れた絶大な権力を利用したのです。宦官には朝廷での出世など考えられませんし、子がいませんから、権力を乱用することは則ち贅を尽くした生活を送ることに他なりません。


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posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 後漢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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