2020年05月24日

後漢 梁太后の死 夙夜勤労と褒めそやされる梁太后が死に、梁冀に歯止めをかけられる存在がいなくなる

 後漢書孝桓帝紀には、『洪範五行伝』を引いて、「法律を棄て、功臣を逐えば、時には即ち羊禍有り、時には則ち赤?赤祥(せきせいせきしょう=五行の「火」に配当される赤色に関わる怪異の現象)有り」。また、「是の時、梁太后摂政し、兄の冀は専権して李固、杜喬を枉誅し、天下之を冤とす(無実の罪であると考える)」との注がありますので、少なくとも構成には忠臣が殺されたことに対する不吉な出来事だったと受け取られていたようです。

 150年2月、梁太后が梁冀に対し、桓帝に権力を返すよう言い残して死去しました。

 梁太后は梁冀とは異なり、立后された時点で「后は若い頃から聡恵、歴史を深く考え、徳を以てその地位にあり、驕慢、専権の心は持たなかった。不吉な現象が起こる度に自らを責め、罪を求めた」という女性で、皇帝が幼く代わりに政治を見た際には、史書が「夙夜勤労」と記すほど勤勉に働き、李固を始めとする有能な官吏を登用して国の安定に努めていました。もし彼女の兄が梁冀でさえなかったら、梁一族の名は輝かしいものになっていたことでしょう。

 しかし、梁冀が如き権力を傘に好き放題やるような類の輩が権力を手放せとの言葉を素直に言うことを聞くはずが有りませんね。それどころか、梁冀を掣肘する存在がいなくなった状況を利用して相変わらず権力を握り続けました。桓帝はこれまでも梁冀の顔色を窺っており、大将軍府の属官から茂才に挙げる人数を増やして属官は3公の倍に至るほど厚遇してたのに加え、1万戸を加増してその所領を3万戸にまでしました。

 弘農の宰宣なる者は梁冀に阿り、「大将軍の功は周公旦に匹敵します。既にご子息は封じられておりますので、奥方を邑君(土地に封じられるのは男だけだったので、封じるのではなくその領地からの収入を化粧代などとして得ることができる制度)とすべきでしょう」と言います。梁冀はこれを容れ、妻の孫寿は襄城君としました。



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posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 後漢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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