2020年05月22日

後漢 桓帝即位 節度のある劉蒜は宦官に嫌われていたため候補から外され、14歳の劉志が即位する 朝廷のトップは梁冀の息のかかった者が占める

 劉蒜は節度があり、態度が厳しいとのことで、梁冀のような人物と対抗しうる皇族だったかもしれません。しかし、その擁立に宦官が反対します。かつて劉蒜は曹騰と面会した際に、曹騰に礼をとらなかったことから宦官から嫌われていたのです。

 結局、梁冀が擁立を決めたのは、章帝の曾孫に当たる劉志です。

 梁太后は劉志に妹を娶せようと洛陽に呼んでいました。史書は「会(たまたま)」と記しますが、怪しいものです。劉志は132年生まれなので、146年には14歳、数えで15歳ということになります。またもや若い皇帝の誕生です。これが、桓帝です。

 桓帝の年齢では政治を見ることはできませんから、梁太后が引き続き朝政に臨むことになりました。当然、このような状況で梁冀のような人物に対抗できるわけがありません。

 なお、このときに梁冀の側に立って桓帝を立てた功績で司徒となり、封侯されたのが、袁安の孫の袁湯です。彼に限らず、この直後に出世しているのは基本的に梁冀の息のかかった人物だと思っておけば、大きな間違いはないでしょう。

 梁冀は一族の子弟5人を、功績がないにも関わらず侯に封じようとします。これに反対したのが杜喬でした。杜喬は孝廉に挙げられてから楊震の下で働き、南郡太守や東海の相を歴任した後に洛陽に戻って財政を司る大司農に移っていました。杜喬はこの梁冀の提案に絡んで桓帝も批判しましたが、顧みられることはありませんでした。

 杜喬の伝によると、桓帝批判後の6月、胡広が罷めたことに伴い、杜喬は3公の1つである太尉に昇進します。別の記事には太尉となった後に桓帝批判を行ったと記録されており、後者が正しいように思います。

 147年8月、梁皇后が冊立されます。梁太后、梁皇后、そして梁冀と、朝廷は両一族で固められました。

 翌9月、洛陽は地震に見舞われます。この機に乗じ、梁冀は杜喬を罷免しました。杜喬が太尉にあったのはわずか3ヶ月だったことになります。そして、翌月の10月には趙戒を司徒から太尉へ、袁湯を司空から司徒へ、そして元の太尉の胡広を司空に任じました。煩い杜喬を追い払い、息のかかった者だけで固めたのです。


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posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 後漢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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