2020年05月20日

後漢 順帝の死 144年、順帝が世を去り、2歳の殤帝が即位するも、即位半年で死去する キングメーカー梁冀の権力はますます巨大なものになる

 この時期の梁冀の所業について、後漢書はこう記します。洛陽の令で父の梁商とも親しい家の客になっていた呂放が梁商と話をする中で梁冀の欠点について語ったことがあります。梁商はそれを聞いて梁冀を責めました。すると、梁冀はただちに人を送って帰宅途中の呂放を刺殺させてしまいます。加えて、このことが梁商に露見しないように、呂放を恨む人びとに罪を着せ、その一族や賓客を皆殺しにさせたというのです。順帝は、梁商の葬儀もまだ終わらないうちにこの梁冀を大将軍に任じます。梁商を惜しんでのことだと思いますが、このようなサイコパスを昇進させたことは後の大きな災いにつながることになります。

 144年8月、順帝は世を去ります。享年、30でした。死にあたっては、後殿(寝殿)を建てることなく、納棺の儀式には胡服(質素な格好)で、珠玉などを服装しないように命じていました。同年に皇太子に立てられたばかりの劉炳が2歳で即位します。これが沖帝です。順帝と梁皇后の間には子が生まれず、沖帝は順帝と虞貴人との間の子です。2歳の男児が皇帝という非常事態に臨朝したのは梁皇后(順帝が亡くなったので梁太后とよぶべきでしょう)でした。朝廷では太傅の趙峻、太尉の李固(彼は梁商によって召されたのでしたね)と大将軍梁冀が権力を握る事になります。とはいえ、梁太后の後ろ盾がある梁冀が最大の権力を握ったことは疑う余地がなく、その暴虐は著しくなりました。

 年が明けて145年の正月、沖帝は在位足掛け6ヶ月で亡くなってしまいます。梁冀は梁太后と相談し、李固の反対を無視して章帝の玄孫に当たる8歳の劉纉(りゅうさん)を即位させます。これが質帝です。

 李固は梁冀の父の梁商により従事侍郎となり、荊州刺史となっています。成績は良かったのですが、梁冀と揉めたことで泰山の太守へ左遷させられました。泰山でも治績は優れていたため、中央に召されて宮殿、宗廟などの造営を司る将作大匠に任じられ、さらに大司農に昇進します。そして、官僚登用の試験の不正を糺すなどの活躍を見せていました。この有能な官吏は梁冀と正面から対立したのですが、敗北を喫したのでした。


面白いと思ったら押して下さると嬉しゅうございます^^

人気ブログランキングへ
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 後漢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
面白いと思ったら押して下さると嬉しゅうございます^^
人気ブログランキングへブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村