2020年05月15日

後漢 三通三絶 班超の子の班勇の活躍もあって西域諸国は再び服属したが、班勇が引き上げるとまた背く 外戚梁一族の登場

 年が明けた126年の正月に、閻姫が世を去ります。史書は多くを語りませんが、閻一族が滅ぼされて2ヶ月で閻姫が亡くなるというタイミングには、偶然とは思われませんね。

 同年5月、外国勢力と国境を接する幽州、并州、涼州の刺史に領域内の調査を行い、堡塁への兵士の充当や軍馬の演習を命じます。10月には死罪以下の者を辺境に移し、罪を贖わさせることとしました。

 もちろん、単なる温情措置ではありません。異民族の侵入が問題となっていたため、兵士の補充が必要だったためです。それを示すように、これに先立つ8月には鮮卑が代に侵入して太守の李超を戦死させています。

 127年はやや対外状況が改善します。この年の2月にも鮮卑は後漢に侵入しますが、護烏桓校尉耿曄が南匈奴の単于を率いて鮮卑を迎撃し、これを撃退しています。また、6月には班勇と敦煌太守の張朗は焉耆、尉犂、危須の3国を攻撃して勝利しています。

 班勇はこのように西域で何度も勝利を挙げ、西域諸国は3度、後漢に服属します。しかし、班勇が引き上げると、西域諸国はまた後漢から離脱します。離反と服属を繰り返し、三通三絶と呼ばれるほどの不安定さが続き、後漢はこの状況を解決するだけの力は持ちませんでした。

 ただ、この離反というのは、商業路まで途絶したという意味ではありません。西域への進入路を異民族が握ったということ、諸国を通る度に関税が課されるので東西貿易で得られる後漢の利益が減った(貴金属は中国から流出していたことを考えると、損する量が減ったというべきかもしれません)ことといったところでしょう。

 一方、中央でも勢力地図が大きく塗り替えられようとしていました。

 128年、梁商の妹と娘が順帝の後宮に入ります。これによって梁商は侍中と北軍の5つの校尉のうち宿衛の兵を司る屯騎校尉に任じられます。梁一族が大きな力を持っていくようになる大きな転換点でした。

 130年、班超の孫の班始が公開処刑される事件が起こります。班超には3人の息子がおり、長男の班雄が屯騎校尉を経て京兆尹にまで出世しています。この班雄の長男が班始です。


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posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 後漢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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