2020年05月14日

後漢 順帝即位 閻氏の擁立した北郷侯の劉懿は在位200日で死去、宦官たちは安帝の廃太子の劉保を擁立し、外戚閻氏を滅ぼす

 閻皇后は北郷侯の劉懿を擁立します。しかし、その200日余り後の10月27日に劉懿は死去しました。そのため、劉懿は正式な皇帝に立てられず、諡号も与えられずに少帝と呼ばれます。もし劉懿が諡号を与えられていた場合、「懿」は諱となりますから、司馬懿や呉懿は異なる名前となっていたはずです。(実際、司馬氏が天下を得たことで司馬懿の「懿」が諱とされ、呉懿は史書では呉壱と記されます)

 この少帝懿について詳細は伝わらないのですが、未成年であったことは間違いないでしょう。

 閻姫やその兄の車騎将軍閻顕、江京らは少帝懿の死を秘匿し、次の皇帝を決めるまで宮門を閉じて兵を中に留め、自分たちを守らせました。そして、済北王の子と河間王の子を密かに都に呼び寄せようとします。

 11月2日、この動きを知った中黄門(宦官の役職で比300石)の孫程ら19人は江京を始めとする閻姫の側近を斬り、安帝の廃太子、劉保を宮殿に迎え、皇帝に擁立しました。これが順帝で、11歳での即位でした。

 順帝を擁立した宦官たちは「陛下は正統で宗廟を継ぐべき方であるのに、奸臣たちは藩国に閉じ込めようとしたため、皆失望しておりました」とその正統性を主張し、傅きました。

 閻顕らは孫程らの動きを知ると、兵を率いて北宮へ入ろうとします。しかし、孫程らは既に虎賁と羽林の兵を北宮の門に配置していました。閻顕の兵は敗れます。弟の閻景は斬られ、閻顕、城門校尉閻耀、執金吾閻晏らは捕えられて誅殺されました。喫緊の脅威がなくなると、直ちに「閻顕、江京の近親は処罰するが、他の者の罪は寛大に扱え」との詔を出しました。

 この期に及んで閻顕らに味方する者などおりません。閻一族は遠ざけられ、閻姫は幽閉されました。

 孝順孝沖孝質帝紀は、戦後処理の話題に続いて、関中と漢中を結ぶ子午道(王莽が拓かせた路でしたね)を廃止し、褒谷道を通じさせたとの記事を乗せます。

 さて、順帝は即位すると、学友の1人で、黄門の従官だった曹騰(そうとう)を小黄門に任じます。この曹騰については、次の時代を扱う際に詳しく見ることに致します。


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posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 後漢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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