2020年05月13日

後漢 安定の死 宦官を重用し、後漢の混乱の端緒を開いた安帝、32歳で世を去る 後漢書は「王者の法度をだめにした」と手厳しく非難

 124年、閻姫は宦官の江京(ケ太后死後に讒言してケ隲らを排除した人物として名前が出ていましたね)と共に、安帝に皇太子劉保を讒言します。閻姫は美しく、安帝の寵愛を占めたのではありますが、男児には恵まれませんでした。もし劉保が即位すれば、実母の李宮人を毒殺させた閻姫には悲惨な末路しか待っていないということもあったのでしょう。

 安帝は讒言を受け、劉保の乳母の王男、飲食係の?吉を殺し、皇太子を廃してしまいました。その翌年の125年、巡狩中に安帝が急死します。32歳でした。安帝の時代は、飢饉や旱魃が続き、外国勢力の侵入にも悩まされました。班勇の活躍もありましたが、その成果は班超のものには遠く及ばず、全体として後漢の力が落ちたことが明確になっていました。

 内外に憂いを抱えながら、安帝は政治を寵愛する閻姫の兄である閻顕や中常侍の樊豊らに任せていました。趙高の例に見られるように、皇帝が政治に興味を持たず、側近が情報の流れを握っているような状況で、国情に関する正確な情報を皇帝が得ることなどできません。得ることを望みもしないのでしょうが。閻顕らに阿る地方官吏たちは瑞祥の報告を繰り返します。そのため、安帝の記事には飢饉や戦争に混じって瑞祥が記されるという奇妙なものになっています。こうしてみると、飢饉の少なくとも一部は人災だったと思わずには居られません。

 後漢書が孝安帝本紀の結びにおいて「王者の法度をだめにした」と手厳しく断じているのも、無理のないことでしょう。また、安帝は官僚との連絡に宦官を重用しました。宦官は安帝期より後、政治に深く関わっていくことになります。

 安帝が亡くなると、問題になるのは後継者です。廃太子劉保は父の棺に近寄ることすら許されませんでした。母に続いて父も失った劉保は悲しみ、叫び、食事も喉を通らないという有様で、哀れに思わない官僚はいませんでした。当然、このような扱いを受ける劉保が即位することは考えられません。しかも、安帝の死は廃太子の翌年で、次の皇太子は決まっていませんでした。


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posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 後漢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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