2020年05月12日

後漢 班勇 班超の末子の班勇、再び背いた西域へ向かい、車師前国や車師後国を攻撃して功績をあげる

 それまで6芸、6経と言っていたものから楽が外れて5経となったような文芸部門だけではなく、『九章算術』のような数学分野でも発展が見られたことは記憶して良いと思います。実は、中国の数学も西洋とは別個にかなりの進展を見せていました。

 彼らは地上の政治に対する天の遺志が天文現象に現れると考えておりましたので、天文現象が熱心に記録されました。天文現象は基本的に数学で叙述可能ですから、数学が発展するわけです。後漢の優れた学舎の賈逵は月も加えて暦を修正しています。

 政治的な混乱はあっても、豊かな時代ではあったのですね。

 123年、西域長史が復活します。

 既に107年に西域都護が廃止されて屯田も撤退したことを記しましたね。すると、権力が空白となった西域に一時は衰退していた北匈奴が北道を脅かし、南道には月氏が勢力を伸ばします。119年に北単于が敦煌の長史索班を攻撃して敗死させたことを受け、朝廷では西域をどうするかの議論が行われました。

 西域へ再び向かいたいと主張したのが、班超の末子の班勇です。班勇は大軍を出征させるには余計な軍も無ければ予算もないことを認めながら、西域長史に500人を付けて楼蘭に駐屯させ、西域諸国の助けにすべしと主張したのです。

 反対論を唱える人びとは、中国には利益がない、未だ匈奴に属していない国も信を置くことはでいないなどと反論しました。しかし、班勇は中国に州牧を置くのは盗賊対策でもあり、自分がやりたいことと同じであるとし、腰斬の覚悟で西域に赴くと言って認められたのです。

 西域長史となった班勇は500の兵を率いて柳中に出ます。鄯善が再び後漢につき、亀茲もまた王が自らを縛って班勇の下を訪れます。よほど匈奴が嫌だったのでしょう。

 班勇はこれらの国の兵を率いて匈奴に付いていた車師前国を攻撃、匈奴の伊蠡王を敗走させて5000人を捕える大勝利を得ました。続いて125年には車師後国を攻撃して勝利し、斬首と捕虜8000という戦果を上げました。車師後国王の軍就は斬られ、その首は洛陽に送られています。


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posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 後漢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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