2020年05月07日

後漢 殤帝の死 殤帝はわずか2歳で世を去り、章帝の元の皇太子劉慶の末裔に当たる13歳の長安侯劉祜が擁立される

 ケ隲は妹が立后された際に昇進を拒んだ経歴を持つ、権力に汲々としない人物です。しかし、このような状況ともなれば是非もありません。ケ隲は車騎将軍に上り、政治を見る事になりました。

 ところが、その翌年、皇帝が世を去ってしまったのです。夭折した皇帝には、20歳より前に死ぬことを意味する「殤」が諡号に選ばれました。

 殤帝が世を去ると、ケ太后は誰を擁立するかを兄の車騎将軍ケ隲と相談します。当然、2歳で世を去った殤帝に子供がいるわけがありませんから、一族から選ぶしかありません。ケ隲らが選んだのは、章帝の子の清河王劉慶の家系でした。劉慶はもともと章帝の皇太子でしたが、讒言にあって廃嫡された経緯の持ち主です。この清河王劉慶はまだ存命中でしたが、ケ隲らはその子から皇帝を選ぶことにしたのでした。その劉慶には長男の劉勝がいたのですが、病弱であるの理由から皇帝には選ばず平原王に封じ、次男で13歳の長安侯劉祜(りゅうこ)を皇帝につけることを決めました。

 ケ隲は殤帝が死んだその夜に、皇子や王が乗るための青蓋車(皇太子や皇子は朱の班輪、青い傘、金の花蚤の安車があったとのことで、傘の色から青傘車と呼び、皇孫だと緑車だったそうです)で劉祜を宮殿に迎え入れ、皇帝としました。これが安帝です。

 従兄弟のケ豹が河南尹、ケ暢が将作大匠となるなど、ケ一族が要職を占めます。ケ綏やケ隲からすれば、政権を安定させるために必要なことだったのでしょうが、一族の権力に溺れてしまったことから、その未来は暗いものとなっていきます。

 安帝即位の翌年にあたる107年、西域都護が廃止されます。

 班超が帰還して任尚が西域都護を引き継いだ後、西域では再び後漢に背く動きがあり、それは任尚が班超の助言に従わなかったことが一因であることは既に述べましたね。その後も西域の動揺は収まらず、遂に後漢は西域放棄を決めたのです。これにより、各地の屯田もまた撤退しました。

 後漢の圧力が減じた西域に、再び北匈奴が食指を伸ばすことになります。


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posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 後漢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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