2020年05月21日

後漢 質帝殺害 質帝は梁冀の専横を憎んで「跋扈将軍」と呼んだため、怒った梁冀は鴆毒で質帝を殺してしまう 鴆毒について

 質帝は幼い頃から聡明でした。そして、梁冀が驕り、恣に振る舞っていること知って梁冀を嫌い、李固を頼ろうとします。しかし、梁冀を「これは跋扈(強く荒々しい)将軍だ」と言ったことから、梁冀は直ちに食事に鴆毒を盛り、質帝を殺してしまいました。146年のことです。後漢書は「質帝が弑逆されたのは聡明だったからである」と記しています。

 この鴆毒とは、毒蛇のマムシを常食することで毒をもつようになった鴆という毒鳥の羽を酒に浸して得たものとされます。1990年代に入るまで毒を持つ鳥は知られていなかったので、鴆は伝説であろうとされていたのですが、ニューギニアに住むピトフーイという鳥が毒を持つことが分かり、今では絶滅したピトフーイの近縁種かとされたことがあります。鴆実在説はそれはそれで面白いのではありますが、『周礼』に見える、雄黄(ゆうおう)、礜石(よせき)、石膽(せきたん)、丹砂(たんしゃ)、慈石(じしゃく)を素焼きの壺に入れて加熱し、立ち上る煙でニワトリの羽を燻すと猛毒の羽になるとあるのがその正体なのでしょう。雄黄はヒ素化合物なので、毒の主成分はヒ素ということになります。

 ヒ素は広く分布しているため、古くから毒殺に使われてきました。ヒ素化合物は全て毒ですが、入手しやすいのは亜ヒ酸です。冷水には溶けませんが、温水にはよく溶けます。質帝を殺す際にはスープに鴆毒を入れたとありますので、亜ヒ酸での毒殺はうなずけますね。ヒ素は体内に入ると、酵素と結びついてその働きを阻害することで、全身に毒性を発揮します。致死量未満のヒ素に慢性的に晒されると、ヒ素がタンパク質合成に悪影響を与えることでがんのリスクが上がります。余談ながら、『毒物雑学事典―ヘビ毒から発ガン物質まで (ブルーバックス) - 大木 幸介』によりますと、ドイツではブドウ栽培に砒酸鉛を使用しているため皮膚がんと肺がんが多いとのことです。

 さて、主君を暗殺した梁冀は次の皇帝を立てなければなりません。李固を始めとする官僚の一部が推したのは清河王劉蒜(りゅうさん)です。


毒物雑学事典―ヘビ毒から発ガン物質まで (ブルーバックス) - 大木 幸介
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2020年05月22日

後漢 桓帝即位 節度のある劉蒜は宦官に嫌われていたため候補から外され、14歳の劉志が即位する 朝廷のトップは梁冀の息のかかった者が占める

 劉蒜は節度があり、態度が厳しいとのことで、梁冀のような人物と対抗しうる皇族だったかもしれません。しかし、その擁立に宦官が反対します。かつて劉蒜は曹騰と面会した際に、曹騰に礼をとらなかったことから宦官から嫌われていたのです。

 結局、梁冀が擁立を決めたのは、章帝の曾孫に当たる劉志です。

 梁太后は劉志に妹を娶せようと洛陽に呼んでいました。史書は「会(たまたま)」と記しますが、怪しいものです。劉志は132年生まれなので、146年には14歳、数えで15歳ということになります。またもや若い皇帝の誕生です。これが、桓帝です。

 桓帝の年齢では政治を見ることはできませんから、梁太后が引き続き朝政に臨むことになりました。当然、このような状況で梁冀のような人物に対抗できるわけがありません。

 なお、このときに梁冀の側に立って桓帝を立てた功績で司徒となり、封侯されたのが、袁安の孫の袁湯です。彼に限らず、この直後に出世しているのは基本的に梁冀の息のかかった人物だと思っておけば、大きな間違いはないでしょう。

 梁冀は一族の子弟5人を、功績がないにも関わらず侯に封じようとします。これに反対したのが杜喬でした。杜喬は孝廉に挙げられてから楊震の下で働き、南郡太守や東海の相を歴任した後に洛陽に戻って財政を司る大司農に移っていました。杜喬はこの梁冀の提案に絡んで桓帝も批判しましたが、顧みられることはありませんでした。

 杜喬の伝によると、桓帝批判後の6月、胡広が罷めたことに伴い、杜喬は3公の1つである太尉に昇進します。別の記事には太尉となった後に桓帝批判を行ったと記録されており、後者が正しいように思います。

 147年8月、梁皇后が冊立されます。梁太后、梁皇后、そして梁冀と、朝廷は両一族で固められました。

 翌9月、洛陽は地震に見舞われます。この機に乗じ、梁冀は杜喬を罷免しました。杜喬が太尉にあったのはわずか3ヶ月だったことになります。そして、翌月の10月には趙戒を司徒から太尉へ、袁湯を司空から司徒へ、そして元の太尉の胡広を司空に任じました。煩い杜喬を追い払い、息のかかった者だけで固めたのです。


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2020年05月23日

後漢 梁冀専横 梁冀に対する反乱は叩き潰され、その政敵の李固や杜喬はご駆使させられる ファフロッキーズ現象の発生

 当然、梁冀の専横に対する反発も生まれます。

 11月、清河の劉文や南陽の劉鮪らが劉蒜を天子と立てようとします。劉文らは清河の相の謝ロを捕え、劉蒜を天子にし謝ロを3公に据えようとしたのですが、謝ロに罵られた劉文は謝ロを殺害してしまいました。

 反乱計画は肝心の劉蒜が賛同しないままに鎮圧され、劉文らは誅殺されました。劉文や劉鮪といった劉姓の人びとが反乱を企てたことは、劉氏の中で反梁冀的な動きがあったことを示しているのかもしれませんね。

 劉蒜は連座して清河王を廃止され、尉氏侯となって桂陽に移されましたが、そこで自殺しました。あるいは、自殺を強要されたのかもしれません。

 この機会を利用して、梁冀は邪魔者を排除することにします。即ち、梁太后に、李固や杜喬が反乱に与していたと誣告したのです。

 梁太后は杜喬の忠実さを知っていたため逮捕を拒みました。そこで、梁冀はまず李固を獄につなぎます。李固の支持者たちは梁冀に対して反対運動を繰り広げましたが、獄中の李固が亡くなってしまいます。享年、54でした。

 梁冀は杜喬に、自分に従えば妻子は許す、と脅しをかけます。杜喬は従わずに逮捕され、李固同様に獄死しました。

 両名の遺体は晒され、梁冀は死体に近づくことを禁じます。それでも汝南の郭亮が李固を、陳留の揚匡が杜喬の遺体を葬りました。梁冀の悪政の下にあっても心ある者はいるのですね。梁太后はこれを許しました。

 翌148年正月、桓帝は元服します。もちろん、梁冀が実権を奉還などするわけもありませんので、桓帝には権限などありませんでした。桓帝は当然梁冀を不快に思っていたわけですが、桓帝の年齢や質帝の事例を見ればとても梁冀に逆らえませんでした。

 149年7月、廉県(現在の寧夏回族自治区銀川の北)に肉が雨のように降った、という奇妙なことが記録されています。続漢書の五行志には、その肉はヒツジの肺に似て、手のような大きさだったとあるそうです。ファフロッキーズ(fafrotskies;falls from the skies、空からの落下物からの造語)と呼ばれる、魚やカエルが降る現象に似たものでしょうか。間違いなく、後漢書の著者の范曄は梁冀の悪政に対する凶兆として、この記録を残したのでしょう。


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2020年05月24日

後漢 梁太后の死 夙夜勤労と褒めそやされる梁太后が死に、梁冀に歯止めをかけられる存在がいなくなる

 後漢書孝桓帝紀には、『洪範五行伝』を引いて、「法律を棄て、功臣を逐えば、時には即ち羊禍有り、時には則ち赤?赤祥(せきせいせきしょう=五行の「火」に配当される赤色に関わる怪異の現象)有り」。また、「是の時、梁太后摂政し、兄の冀は専権して李固、杜喬を枉誅し、天下之を冤とす(無実の罪であると考える)」との注がありますので、少なくとも構成には忠臣が殺されたことに対する不吉な出来事だったと受け取られていたようです。

 150年2月、梁太后が梁冀に対し、桓帝に権力を返すよう言い残して死去しました。

 梁太后は梁冀とは異なり、立后された時点で「后は若い頃から聡恵、歴史を深く考え、徳を以てその地位にあり、驕慢、専権の心は持たなかった。不吉な現象が起こる度に自らを責め、罪を求めた」という女性で、皇帝が幼く代わりに政治を見た際には、史書が「夙夜勤労」と記すほど勤勉に働き、李固を始めとする有能な官吏を登用して国の安定に努めていました。もし彼女の兄が梁冀でさえなかったら、梁一族の名は輝かしいものになっていたことでしょう。

 しかし、梁冀が如き権力を傘に好き放題やるような類の輩が権力を手放せとの言葉を素直に言うことを聞くはずが有りませんね。それどころか、梁冀を掣肘する存在がいなくなった状況を利用して相変わらず権力を握り続けました。桓帝はこれまでも梁冀の顔色を窺っており、大将軍府の属官から茂才に挙げる人数を増やして属官は3公の倍に至るほど厚遇してたのに加え、1万戸を加増してその所領を3万戸にまでしました。

 弘農の宰宣なる者は梁冀に阿り、「大将軍の功は周公旦に匹敵します。既にご子息は封じられておりますので、奥方を邑君(土地に封じられるのは男だけだったので、封じるのではなくその領地からの収入を化粧代などとして得ることができる制度)とすべきでしょう」と言います。梁冀はこれを容れ、妻の孫寿は襄城君としました。



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2020年05月25日

後漢 梁冀の妻の孫寿 美人だが性格がきつく、梁冀ですら恐れたという梁冀の妻・孫寿 梁一族は高位に登り、好き放題を行う

 孫寿は美人で科を作り、細く曲がった眉、目の下にだけ薄く白粉を塗って涙が流れたように見える化粧をし、頭の片側に髪を寄せ、なよなよした歩き方をし、歯痛を患っているかのような作り笑いを浮かべて媚惑したと後漢書は記しています。最後の項目のどこが魅力的なのか、ワタクシには分かりかねますが、梁冀は気に入っていたのでしょう。

 なよなよしたように見えながら、性格はきつく、梁冀もこれを憚るという女性でした。梁商が順帝に献じた友通期という女性が過ちを犯して梁商のもとへ返されたことがあります。梁商は他所に嫁に出したのですが、梁冀はそれを奪って密かに洛陽の西方で囲ってしまいます。梁商没後も梁冀は喪に服する間に、密かに友通期と暮らしていました。それを知った孫寿は、梁冀がでかけた隙に友通期を連れ去り、髪を斬って面皮を剥ぎ、鞭で打った挙げ句に上書しようとします。服喪中のこのような行為は大問題ですから、梁冀は孫寿の母に泣きつくしかありませんでした。

 後に友通期は梁冀の子を生むのですが、これもまた孫寿の知るところとなり、孫寿は自分の子の梁胤に友氏を滅ぼさせました。

 歴史上の悪女にソクラテスの妻がカウントされることがありますが、その選考をした人は孫寿を知らなかったのでしょう。

 梁冀は孫一族を高位につけましたが、孫氏を騙って侍中、卿、校尉、郡守、長吏となった者10人余りはいずれも欲深くて凶悪だったというのですから、同類ばかりが昇進したということになります。

 彼らは地方の富豪を牢に入れて拷問し、多額の金を要求しました。金で贖うことができなかった者は殺されました。扶風の士孫奮というケチな富豪は梁冀に4匹のウマと引き換えに5000万銭を要求されたのに対して3000万しか与えなかったことから、罪をでっちあげられて拷問の末に殺され、1億7000万銭にのぼる財産を奪われています。


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