2020年05月16日

後漢 梁商の娘の梁妠(りょうなん) 班始は妻が若い男の同衾を見せつけたのを怒って妻を殺害、一家が滅される 梁妠の立后

 班始は章帝の孫で順帝の叔母にあたる陰城公主を娶っていました。この女性は大変に困った性癖の持ち主だったようで、班始をベッドの下に居させておいて、若い男と同衾したのです。怒った班始は公主を刺殺しました。順帝は激怒し、班始とその兄弟は全員腰斬とされたのです。

 現在でも、女性が最も殺されやすい状況は、別の男との行為が露見した時だとされます(別の男性とする姿を見て興奮したいという性癖の持ち主もいるようですが)。人の気質は変わらないものなのですね。

 西域で活躍を見せている班勇は班超の息子なので、この班始の誅殺のとばっちりは受けず、西域に残っています。

 132年正月梁商の娘の梁妠(りょうなん)が皇后となります。

 梁妠は幼い頃から教育を受け、史書を好み論語を諳んじたという才女です。128年に13歳で後宮に入り、順帝に尊重され、貴人に昇進していました。それが皇后となったのです。

 父の梁商には特進が与えられ、領地は増やされ、座乗の車とそれを引く4頭のウマも与えられるという、外戚の特権を得ます。同年中には執金吾に昇進も果たし、134年には大将軍も加えられました。

 梁商は外戚であることに加えて政府内でも高位に付いたわけですが、常に謙虚で温和にするよう心がけ、賢良を推薦しています。例えば長安で幼少のころから学問に励んでいて、一度は仕官したものの讒言にあって下野していた李固を推薦しています。

 また、飢饉が発生する都度、自分の封じられた土地から租税として得た穀物を名を明かさずに供出してもいました。

 心優しい梁商でしたが、優しい人の多くが決断力を持たない典型で、引っ込み思案で宦官に対しても弱腰でした。

 一部の宦官は優柔不断な梁商が寵愛を受けていることを憎みます。不満を抱く宦官たちの中心だった中常侍の張逵らは、梁商と同じく中常侍の曹騰らを追い落とそうと「梁商らは王子たちを廃立させようとしていますので、彼らを捕えて罪に問うべきです」讒言します。しかし、皇帝は「大将軍父子は朕の親しい存在で、曹騰らは朕の愛する人びとである。そのようなことはない。お前たちが妬んでいるだけであろう」と却下しました。


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2020年05月17日

後漢 地震計献上 132年、張衡が地震計を献上する 地震が多発していたこともあり、地震計は重宝された

 張逵らは讒言が受け入れられなければ逆に自分たちが危ないと、曹騰たちを捕えてしまいます。ここでもし張逵の陰謀が成功すれば、後漢末の動乱は大きくその姿を変えることになったはずなのですが、曹騰らが危ないと聞いた皇帝は激怒して直ちに曹騰らを解放させ、張逵らは誅殺されました。

 梁商や曹騰排除を図った一味に対する取り調べは苛烈を極め、拷問によって次々と関係者の名前が挙げられます。梁商は連座する者の多いことを憂い、『春秋』を引いて皇帝を諌めました。帝はその正しさを認め、刑に服したのは座する者のみに留まりました。心優しくも、柔弱な梁商は外戚としては安全な人物であったでしょう。しかし、その一族に問題があることを、後に見ることとなります。

 梁妠が立后されたのと同じ132年7月、張衡が候風地動儀(地震計)を献じます。

 この時期、後漢では地震が頻発していました。順帝の時代に発生した地震の記録を抜き出してみましょう。

即位直前の125年11月丁巳(同日、江京らを誅殺しています)
128年春正月丙子、京師に地震あり、漢陽に地陥裂す
133年夏4月己亥、京師に地震あり
135年冬12月甲寅、京師に地震あり
137年夏4月丙申、京師に地震あり
  冬11月丁卯、京師に地震あり
138年春2月乙亥、京師および金城、隴西に地震あり、2郡で山崩れ、地陥る
  閏4月己酉、京師に地震あり
139年3月乙亥、京師に地震あり
140年春2月戊申、京師に地震あり143年涼州の地180たび震う

 地震のメカニズムなど知る由もない当時の人々にとって、繰り返し発生する地震はさぞ不安をかきたてるものだったのでしょう。地震をきっかけに反乱が起こることもあったそうです。

 また、農民に課せられた租税金は穀物で払うことも多かったので、地震による交通網の破壊はそのまま租税徴収ができなくなることに結びついていました。治安維持のためにも徴税のためにも、為政者にとっては地震の発生をいち早く知ることが重要だったのです。


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2020年05月18日

後漢 張衡の地震計 知覚できないレベルの揺れさえ検出することができた地震計の仕組み

 では、張衡の地震計とはどのような装置だったのでしょうか。『中国の科学と文明〈第1巻 序篇〉 - ジョゼフ ニーダム, 護, 砺波, 繁, 脇本, 二郎, 杉山, 勝美, 田辺』から引用します。

それは「精製した青銅」の、酒がめによく似た直径180センチの容器で、円屋根のようなフタがついている。外部の表面は山、亀、鳥、獣、あるいは古代の文字などで装飾がほどこされている。容器の周囲には8匹の竜の頭が等間隔に付き、それぞれの口に青銅の球をくわえている。球は竜の口が開いたり押されたりすると、外に落ちるようになっている。 容器の基部を取り囲んで、竜に相対した8匹のガマ蛙が座り、口を大きく開けて上を見あげている。それらは竜の口の真下に位置し、球が落ちるのを待ち受けている。青銅の球が蛙の口に落ちれば、大きな音をたてるにちがいない。


 また、次のようにも記されている。「内部には中心柱があり、それが8つの方向の軌道に沿って横に変位することができ、閉じたり開いたりする機構を操作できる仕掛けになっていた」。この「中心柱」は明らかに一種の振子である。大地の揺れが生じると、それが動いて球が落ちたのだろう。球が落ちるとすぐに、機構はそれ以上働かなくなり、2番目の揺れですべての球が落ちるのを防いだので、装置の目的が果たせなくなることはなかった。


 球が落ちた方向が、地震の発生した方向でした。その精度の高さは驚くほどのものだったと伝えられます。揺れが感じられないのに球が落ちたことがあり、誰もが訝しんでいたところ、数日後に隴西から地震発生が報告されたことがあるほどでした。

 その後も地震計は使われ続けたのですが、元の時代に失われてしまいました。現代になって張衡の功績が見直され、日本の今村明恒、石本巳四雄らの活躍もあって復元されています。その復元によると、中心柱は倒立振子で、最初の揺れで倒れることで、振れて180度反対側の球を落とすことが無かったとされています。真実は不明にしても、技術と知識の粋を集めたものだったことは間違いないでしょう。

 地震のことはこれで終わることとし、歴史の流れに戻りましょう。

中国の科学と文明〈第1巻 序篇〉 - ジョゼフ ニーダム, 護, 砺波, 繁, 脇本, 二郎, 杉山, 勝美, 田辺
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2020年05月19日

後漢 梁冀 141年、梁皇后の父の梁商が病に冒されて世を去り、子の梁冀が後を継ぐ それまでの官職で暴虐で何度も法を犯す危険人物だった

 133年、学者の李固は外戚や宦官の専横を上奏します。

 李固幼い頃から学問を好み、長安では有名な存在となっていました。その名を伝え聞いた地方から何度か登用の誘いがありましたが、いずれも拒否しています。132年に上奏したことから順帝の目に止まり議郎となったのでした。外戚からも宦官から睨まれることとなったのですが、順帝は李固らを用いることでバランスをと労組するようになっていきます。その活躍はもう少し後に見ることになるでしょう。

 141年、梁商が病に冒され、跡取りとなる息子に薄葬を命じて世を去ります。息子たちは父の遺言に従おうとしましたが、順帝はそれを許さず、遺体を銀の板で覆う銀鏤、柏の黄色の芯が表に出るようにして作られた棺、銭200万銭などを下賜し、皇后は自らその葬列を見送り、順帝は城門まで出て車騎が去る様を瞻望したそうです。この梁商後継者となったのが、梁冀です。家系をたどると梁統−梁竦−梁雍−梁商−梁冀となります。

 ここで梁冀について述べておきましょう。梁冀は字を伯卓と言い、後漢書によれば「人と為り鳶の肩に豺の目、洞精瞠眄(とうせいとうべん)、口吟舌言、裁(わず)かに書計を能くす」ということで、いかり肩で目が竪く、眼は相手を真っ直ぐに見て、吃音があり、読み書き計算はよくできたそうです。酒好きで、おはじきや双六、蹴鞠、賭博に熱中し、鷹狩りやドッグレース、闘鶏などにのめり込みました。そうした趣味を持っていても別に構いません。しかし、梁冀の問題は、父とは正反対と評しても過言ではないその性格でした。梁冀は黄門侍郎を皮切りに、侍中、虎賁中郎将、越騎と歩兵の校尉、執金吾に転じ、更に136年には河南尹となるなど出世を重ねてきました。職にある間、暴虐で金遣いが荒く、法を犯すことが多かったというのですから、民衆はたまったものではありません。


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2020年05月20日

後漢 順帝の死 144年、順帝が世を去り、2歳の殤帝が即位するも、即位半年で死去する キングメーカー梁冀の権力はますます巨大なものになる

 この時期の梁冀の所業について、後漢書はこう記します。洛陽の令で父の梁商とも親しい家の客になっていた呂放が梁商と話をする中で梁冀の欠点について語ったことがあります。梁商はそれを聞いて梁冀を責めました。すると、梁冀はただちに人を送って帰宅途中の呂放を刺殺させてしまいます。加えて、このことが梁商に露見しないように、呂放を恨む人びとに罪を着せ、その一族や賓客を皆殺しにさせたというのです。順帝は、梁商の葬儀もまだ終わらないうちにこの梁冀を大将軍に任じます。梁商を惜しんでのことだと思いますが、このようなサイコパスを昇進させたことは後の大きな災いにつながることになります。

 144年8月、順帝は世を去ります。享年、30でした。死にあたっては、後殿(寝殿)を建てることなく、納棺の儀式には胡服(質素な格好)で、珠玉などを服装しないように命じていました。同年に皇太子に立てられたばかりの劉炳が2歳で即位します。これが沖帝です。順帝と梁皇后の間には子が生まれず、沖帝は順帝と虞貴人との間の子です。2歳の男児が皇帝という非常事態に臨朝したのは梁皇后(順帝が亡くなったので梁太后とよぶべきでしょう)でした。朝廷では太傅の趙峻、太尉の李固(彼は梁商によって召されたのでしたね)と大将軍梁冀が権力を握る事になります。とはいえ、梁太后の後ろ盾がある梁冀が最大の権力を握ったことは疑う余地がなく、その暴虐は著しくなりました。

 年が明けて145年の正月、沖帝は在位足掛け6ヶ月で亡くなってしまいます。梁冀は梁太后と相談し、李固の反対を無視して章帝の玄孫に当たる8歳の劉纉(りゅうさん)を即位させます。これが質帝です。

 李固は梁冀の父の梁商により従事侍郎となり、荊州刺史となっています。成績は良かったのですが、梁冀と揉めたことで泰山の太守へ左遷させられました。泰山でも治績は優れていたため、中央に召されて宮殿、宗廟などの造営を司る将作大匠に任じられ、さらに大司農に昇進します。そして、官僚登用の試験の不正を糺すなどの活躍を見せていました。この有能な官吏は梁冀と正面から対立したのですが、敗北を喫したのでした。


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