2020年05月11日

後漢 学問の発展 地味ではあるが意外と学問の発展した後漢時代 当時の漢字を解説する『説文解字』のおかげで甲骨文字も解読できる

 ケ一族を滅ぼすと、続いてケ綏に可愛がられた平原王劉翼もまた、都卿侯に落とされます。劉翼は河間に帰ると、客の訪問も拒絶して家に籠もったため、それ以上の迫害は受けずにすみました。

 ただ、ケ一族への迫害は長くは続きませんでした。ケ綏やケ隲を擁護する声が大きくなり、生き残ったケ一族の人びとは再び首都に戻ることが許されました。三国時代に活躍するケ芝はこの一族の出なので、もし許されなかったら歴史はまた違っていたことでしょう。

 この頃から、各地で農民反乱が起こるようになり、また皇帝や王を僭称する者が現れはじめます。

 社会の混乱が表立って現れ始めたのです。

 一方で、この頃までに人口は増え、国内での大混乱が無かったことから、学問的には発展を遂げます。

 121年には漢字の字体と原義を解釈した『説文解字』が献上されます。当時知られていた15000余りの漢字を6つの法則、即ち象形、指事、会意、形声、転注、仮借に分類したもので、現代日本でも使われる分類ですよね。その後、使われる漢字の数は大きく減っていますから、殷代の甲骨文を解読できるのはこのお陰です。この労作を成し遂げたのは当時儒学者、文学者として知られた許慎で、その子の許冲によって献上されました。

 後漢時代は一番有名なのが後漢末の混乱、次が建国時、他はせいぜい班超くらいだと思うのですが、実は意外と学問の発展した時代です。『教養の中国史 - 津田資久, 井ノ口哲也』はこう記します。

後漢時代は、蔡倫による紙の改良に代表される製紙技術をはじめ、製鉄技術・紡績機械・造船技術・土木建設技術等の初生産技術が高水準に到達し、天文学(三統暦の完成、渾天儀による観測法)・数学(『九章算術』)・医学薬学(『黄帝内経』・『傷寒雑病論』・『神農本草』)・農学(『氾勝之書』『四民月令』)・地理学(『漢書』地理志)が基本体系を確立した時期であった。


教養の中国史 - 津田資久, 井ノ口哲也
教養の中国史 - 津田資久, 井ノ口哲也


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2020年05月12日

後漢 班勇 班超の末子の班勇、再び背いた西域へ向かい、車師前国や車師後国を攻撃して功績をあげる

 それまで6芸、6経と言っていたものから楽が外れて5経となったような文芸部門だけではなく、『九章算術』のような数学分野でも発展が見られたことは記憶して良いと思います。実は、中国の数学も西洋とは別個にかなりの進展を見せていました。

 彼らは地上の政治に対する天の遺志が天文現象に現れると考えておりましたので、天文現象が熱心に記録されました。天文現象は基本的に数学で叙述可能ですから、数学が発展するわけです。後漢の優れた学舎の賈逵は月も加えて暦を修正しています。

 政治的な混乱はあっても、豊かな時代ではあったのですね。

 123年、西域長史が復活します。

 既に107年に西域都護が廃止されて屯田も撤退したことを記しましたね。すると、権力が空白となった西域に一時は衰退していた北匈奴が北道を脅かし、南道には月氏が勢力を伸ばします。119年に北単于が敦煌の長史索班を攻撃して敗死させたことを受け、朝廷では西域をどうするかの議論が行われました。

 西域へ再び向かいたいと主張したのが、班超の末子の班勇です。班勇は大軍を出征させるには余計な軍も無ければ予算もないことを認めながら、西域長史に500人を付けて楼蘭に駐屯させ、西域諸国の助けにすべしと主張したのです。

 反対論を唱える人びとは、中国には利益がない、未だ匈奴に属していない国も信を置くことはでいないなどと反論しました。しかし、班勇は中国に州牧を置くのは盗賊対策でもあり、自分がやりたいことと同じであるとし、腰斬の覚悟で西域に赴くと言って認められたのです。

 西域長史となった班勇は500の兵を率いて柳中に出ます。鄯善が再び後漢につき、亀茲もまた王が自らを縛って班勇の下を訪れます。よほど匈奴が嫌だったのでしょう。

 班勇はこれらの国の兵を率いて匈奴に付いていた車師前国を攻撃、匈奴の伊蠡王を敗走させて5000人を捕える大勝利を得ました。続いて125年には車師後国を攻撃して勝利し、斬首と捕虜8000という戦果を上げました。車師後国王の軍就は斬られ、その首は洛陽に送られています。


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2020年05月13日

後漢 安定の死 宦官を重用し、後漢の混乱の端緒を開いた安帝、32歳で世を去る 後漢書は「王者の法度をだめにした」と手厳しく非難

 124年、閻姫は宦官の江京(ケ太后死後に讒言してケ隲らを排除した人物として名前が出ていましたね)と共に、安帝に皇太子劉保を讒言します。閻姫は美しく、安帝の寵愛を占めたのではありますが、男児には恵まれませんでした。もし劉保が即位すれば、実母の李宮人を毒殺させた閻姫には悲惨な末路しか待っていないということもあったのでしょう。

 安帝は讒言を受け、劉保の乳母の王男、飲食係の?吉を殺し、皇太子を廃してしまいました。その翌年の125年、巡狩中に安帝が急死します。32歳でした。安帝の時代は、飢饉や旱魃が続き、外国勢力の侵入にも悩まされました。班勇の活躍もありましたが、その成果は班超のものには遠く及ばず、全体として後漢の力が落ちたことが明確になっていました。

 内外に憂いを抱えながら、安帝は政治を寵愛する閻姫の兄である閻顕や中常侍の樊豊らに任せていました。趙高の例に見られるように、皇帝が政治に興味を持たず、側近が情報の流れを握っているような状況で、国情に関する正確な情報を皇帝が得ることなどできません。得ることを望みもしないのでしょうが。閻顕らに阿る地方官吏たちは瑞祥の報告を繰り返します。そのため、安帝の記事には飢饉や戦争に混じって瑞祥が記されるという奇妙なものになっています。こうしてみると、飢饉の少なくとも一部は人災だったと思わずには居られません。

 後漢書が孝安帝本紀の結びにおいて「王者の法度をだめにした」と手厳しく断じているのも、無理のないことでしょう。また、安帝は官僚との連絡に宦官を重用しました。宦官は安帝期より後、政治に深く関わっていくことになります。

 安帝が亡くなると、問題になるのは後継者です。廃太子劉保は父の棺に近寄ることすら許されませんでした。母に続いて父も失った劉保は悲しみ、叫び、食事も喉を通らないという有様で、哀れに思わない官僚はいませんでした。当然、このような扱いを受ける劉保が即位することは考えられません。しかも、安帝の死は廃太子の翌年で、次の皇太子は決まっていませんでした。


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2020年05月14日

後漢 順帝即位 閻氏の擁立した北郷侯の劉懿は在位200日で死去、宦官たちは安帝の廃太子の劉保を擁立し、外戚閻氏を滅ぼす

 閻皇后は北郷侯の劉懿を擁立します。しかし、その200日余り後の10月27日に劉懿は死去しました。そのため、劉懿は正式な皇帝に立てられず、諡号も与えられずに少帝と呼ばれます。もし劉懿が諡号を与えられていた場合、「懿」は諱となりますから、司馬懿や呉懿は異なる名前となっていたはずです。(実際、司馬氏が天下を得たことで司馬懿の「懿」が諱とされ、呉懿は史書では呉壱と記されます)

 この少帝懿について詳細は伝わらないのですが、未成年であったことは間違いないでしょう。

 閻姫やその兄の車騎将軍閻顕、江京らは少帝懿の死を秘匿し、次の皇帝を決めるまで宮門を閉じて兵を中に留め、自分たちを守らせました。そして、済北王の子と河間王の子を密かに都に呼び寄せようとします。

 11月2日、この動きを知った中黄門(宦官の役職で比300石)の孫程ら19人は江京を始めとする閻姫の側近を斬り、安帝の廃太子、劉保を宮殿に迎え、皇帝に擁立しました。これが順帝で、11歳での即位でした。

 順帝を擁立した宦官たちは「陛下は正統で宗廟を継ぐべき方であるのに、奸臣たちは藩国に閉じ込めようとしたため、皆失望しておりました」とその正統性を主張し、傅きました。

 閻顕らは孫程らの動きを知ると、兵を率いて北宮へ入ろうとします。しかし、孫程らは既に虎賁と羽林の兵を北宮の門に配置していました。閻顕の兵は敗れます。弟の閻景は斬られ、閻顕、城門校尉閻耀、執金吾閻晏らは捕えられて誅殺されました。喫緊の脅威がなくなると、直ちに「閻顕、江京の近親は処罰するが、他の者の罪は寛大に扱え」との詔を出しました。

 この期に及んで閻顕らに味方する者などおりません。閻一族は遠ざけられ、閻姫は幽閉されました。

 孝順孝沖孝質帝紀は、戦後処理の話題に続いて、関中と漢中を結ぶ子午道(王莽が拓かせた路でしたね)を廃止し、褒谷道を通じさせたとの記事を乗せます。

 さて、順帝は即位すると、学友の1人で、黄門の従官だった曹騰(そうとう)を小黄門に任じます。この曹騰については、次の時代を扱う際に詳しく見ることに致します。


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2020年05月15日

後漢 三通三絶 班超の子の班勇の活躍もあって西域諸国は再び服属したが、班勇が引き上げるとまた背く 外戚梁一族の登場

 年が明けた126年の正月に、閻姫が世を去ります。史書は多くを語りませんが、閻一族が滅ぼされて2ヶ月で閻姫が亡くなるというタイミングには、偶然とは思われませんね。

 同年5月、外国勢力と国境を接する幽州、并州、涼州の刺史に領域内の調査を行い、堡塁への兵士の充当や軍馬の演習を命じます。10月には死罪以下の者を辺境に移し、罪を贖わさせることとしました。

 もちろん、単なる温情措置ではありません。異民族の侵入が問題となっていたため、兵士の補充が必要だったためです。それを示すように、これに先立つ8月には鮮卑が代に侵入して太守の李超を戦死させています。

 127年はやや対外状況が改善します。この年の2月にも鮮卑は後漢に侵入しますが、護烏桓校尉耿曄が南匈奴の単于を率いて鮮卑を迎撃し、これを撃退しています。また、6月には班勇と敦煌太守の張朗は焉耆、尉犂、危須の3国を攻撃して勝利しています。

 班勇はこのように西域で何度も勝利を挙げ、西域諸国は3度、後漢に服属します。しかし、班勇が引き上げると、西域諸国はまた後漢から離脱します。離反と服属を繰り返し、三通三絶と呼ばれるほどの不安定さが続き、後漢はこの状況を解決するだけの力は持ちませんでした。

 ただ、この離反というのは、商業路まで途絶したという意味ではありません。西域への進入路を異民族が握ったということ、諸国を通る度に関税が課されるので東西貿易で得られる後漢の利益が減った(貴金属は中国から流出していたことを考えると、損する量が減ったというべきかもしれません)ことといったところでしょう。

 一方、中央でも勢力地図が大きく塗り替えられようとしていました。

 128年、梁商の妹と娘が順帝の後宮に入ります。これによって梁商は侍中と北軍の5つの校尉のうち宿衛の兵を司る屯騎校尉に任じられます。梁一族が大きな力を持っていくようになる大きな転換点でした。

 130年、班超の孫の班始が公開処刑される事件が起こります。班超には3人の息子がおり、長男の班雄が屯騎校尉を経て京兆尹にまで出世しています。この班雄の長男が班始です。


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