2020年05月06日

後漢 和帝の死 和帝の子は不自然にも次々と夭折していたため、和帝が死ぬと民間に預けられていた生後100日あまりの劉隆が即位する

 紙の普及は学問だけではなく、社会も変えていくことになりました。即ち、後漢時代に初めて、安く軽量の紙の書籍が出現し、書籍の流通も進んだのです。三国時代を経た後の晋の時代には、ベストセラーが誕生したために紙需要が急進したことで紙の単価が上がったことから「洛陽の紙価を高からしむ」の言葉が生まれています。これにも、紙の普及だけではなく安価な書籍の誕生が背景にあるのです。

 多くの書籍を入手可能になると、人材に求められる知識量も変わっていきます。前漢は書籍を手に入れることが困難でしたから、1つのテキストに通じていれば良かったわけです。ところが、複数のテキストに通じなければ一人前とみなされなくなっていったのでした。受験生の皆さまは、他の誰よりも前にまず蔡倫を恨むべきかもしれません。

 同年、和帝が死去します。

 和帝は多くの皇子に恵まれてはいたのですが、不自然なことに次々と死んでしました。和帝は外戚や宦官が手を下しているのではないかと疑い、新たに生まれた子を民間で育てさせていました。即位することになったのは、この民間育ちの劉隆で、この時まだ生後100日にも満ちていませんでした。長い中国の歴史でも最年少の皇帝、殤帝の誕生です。この赤ん坊を支えることになったのが、和帝の2番めの皇后となっていたケ綏です。ケ綏は後漢建国に功績のあった将軍たちの中でも筆頭に叙せられるケ禹の孫娘に当たります。15歳で後宮に入ったときから美貌で知られ、後宮では後漢書を著した班固や西域経営に当たった班超らの妹の班昭から経書を習うなど、才色兼備の女性でした。

 しかし、その美貌は和帝の最初の皇后である陰皇后(光武帝劉秀の皇后陰麗華の兄の陰識の曾孫)の嫉妬を買うようになります。陰皇后はケ綏に呪いをかけていましたが、和帝に告発されたことから廃位されました。ケ綏は立后を一度は拒みましたが、和帝は彼女を2番めの皇后としたのでした。このケ綏が頼ったのは、兄のケ隲です。


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2020年05月07日

後漢 殤帝の死 殤帝はわずか2歳で世を去り、章帝の元の皇太子劉慶の末裔に当たる13歳の長安侯劉祜が擁立される

 ケ隲は妹が立后された際に昇進を拒んだ経歴を持つ、権力に汲々としない人物です。しかし、このような状況ともなれば是非もありません。ケ隲は車騎将軍に上り、政治を見る事になりました。

 ところが、その翌年、皇帝が世を去ってしまったのです。夭折した皇帝には、20歳より前に死ぬことを意味する「殤」が諡号に選ばれました。

 殤帝が世を去ると、ケ太后は誰を擁立するかを兄の車騎将軍ケ隲と相談します。当然、2歳で世を去った殤帝に子供がいるわけがありませんから、一族から選ぶしかありません。ケ隲らが選んだのは、章帝の子の清河王劉慶の家系でした。劉慶はもともと章帝の皇太子でしたが、讒言にあって廃嫡された経緯の持ち主です。この清河王劉慶はまだ存命中でしたが、ケ隲らはその子から皇帝を選ぶことにしたのでした。その劉慶には長男の劉勝がいたのですが、病弱であるの理由から皇帝には選ばず平原王に封じ、次男で13歳の長安侯劉祜(りゅうこ)を皇帝につけることを決めました。

 ケ隲は殤帝が死んだその夜に、皇子や王が乗るための青蓋車(皇太子や皇子は朱の班輪、青い傘、金の花蚤の安車があったとのことで、傘の色から青傘車と呼び、皇孫だと緑車だったそうです)で劉祜を宮殿に迎え入れ、皇帝としました。これが安帝です。

 従兄弟のケ豹が河南尹、ケ暢が将作大匠となるなど、ケ一族が要職を占めます。ケ綏やケ隲からすれば、政権を安定させるために必要なことだったのでしょうが、一族の権力に溺れてしまったことから、その未来は暗いものとなっていきます。

 安帝即位の翌年にあたる107年、西域都護が廃止されます。

 班超が帰還して任尚が西域都護を引き継いだ後、西域では再び後漢に背く動きがあり、それは任尚が班超の助言に従わなかったことが一因であることは既に述べましたね。その後も西域の動揺は収まらず、遂に後漢は西域放棄を決めたのです。これにより、各地の屯田もまた撤退しました。

 後漢の圧力が減じた西域に、再び北匈奴が食指を伸ばすことになります。


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2020年05月08日

後漢 倭国帥升奉献 安定の朝廷へ倭国の王の帥升からの使者が訪れる 史書に名を留める最初の日本人の記録

 10月には倭国の王の帥升が奉献しています。時期から考えて安帝即位に対する挨拶なのでしょう。光武帝に奉献して金印を与えられたのは「奴国王」ですから、名前ではありません。ですので、帥升は外国の歴史書に名を残す最初の人物ということになります。海外からの奉献は後漢にとってめでたいことだったでしょうが、1年を通じて見れば、後漢には大変な年だったようです。郡国18に地震があり、41には水害が、28には風害が起こっています。また、倭国奉献の翌11月には司空の周章が安帝の廃立を図って免職されて自殺する事件が起こっています。

 古代中国では天変地異を政治の良し悪しと結びつけて考えていました。そのため、太尉の除防は罷免されています。3公が災異で免ぜられることはここからはじまるそうです。

 既に述べた通り、3公は既に形式的なものになっており、尚書を兼ねなければ実際の政治には関与できないようになっていました。何ら実権は無いのに、詰腹だけは切らされるとはなかなかに厄介な地位になってしまいましたね。

 108年正月には、前年の悪い雰囲気を踏襲するかのように、車騎将軍ケ隲が西方で羌族に敗北、4月には漢陽城中で火災が発生して3570人が焼死、5月には旱魃が起こっています。6月には今度は郡国40に大雨が降り、風害が出て、雹も降りました。10月には征西校尉任尚が先零羌と戦って敗北、11月には先零羌の王は天子を称し、長安のある三輔に侵入して漢中の太守を殺しています。

 109年、安帝は元服し、恩赦が行われました。正月には高句麗が使者を送って貢献しています。しかし、この年もまた後漢には苦しい年になります。3月には首都で飢饉が激しく。民は相喰んだと史書は記します。

 4月には国庫が足りないからと、売官が行われます。関内侯、虎賁羽林郎、五大夫などの地位が売られ、金を出したものがその地位につけるというわけです。国庫が厳しくなっている様が明らかですね。一方で貧民には皇帝所領の土地を開墾する許可を与えました。更に7月には種籾と食料を与えています。


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2020年05月09日

後漢 張衡 116年に張衡が太史令に着任 青年時代に崔瑗から天文や数学を倣った多才な人物の登場

 後漢の苦境を見抜いたか、烏桓や鮮卑が背いて侵入して郡の兵を破り、南単于もまた背きました。12月には地震が起こり、9の郡国で被害が生じています。ようやく改善が見えてきたのは110年のことで、広く海岸沿いをあらしていた海賊の張伯路を青州刺史が破り、度遼将軍と遼東太守は南匈奴を破っています。

 116年、後漢のみならず、古代中国の科学、技術を語る上で決して外すことのできない人物が太史令に着任します。その人物こそ、張衡です。

 張衡の祖父の張堪は蜀の太守を務めるまで出世したのですが、私財の蓄積に励むことはなく、また張衡の父は早くに亡くなったことから、張衡は苦学したようです。そのような中でも前漢の有名な詩人、司馬相如の詩に親しみ、10歳の頃には詠んだ詩が讃えられるという神童ぶりを発揮しました。

 青年時代は、後漢の多くの若者と同様に洛陽や長安で学びました。この時、崔瑗から天文や数学を習っています。崔瑗の師は班固と共に校書郎に任じられた賈逵(もちろん、三国時代に活躍する同姓同名の人物とは別人です)の弟子ですから、当時の後漢が持っていた天文学や暦学の知識をここで得たようです。

 張衡は太史令となったその年のうちに皇帝に地図を献上しています。この地図には、碁盤目状の目盛りが入れられることで、位置や距離を容易かつ簡易に調べることができるようになりました。張衡は地図作成について著作を残したそうなのですが、残念なことに散逸して残っていません。

 中国では天文現象は地上の政治に対する天の意思を示すものとされましたから、天体観測に多くの労力が割かれたり、暦法の研究に役人が当たったりしました。将に最先端知を学んでいたと言えるでしょう。

 後漢の天文学はかなりの発展を見せており、渾天儀と呼ばれる天体の観測装置が作られていました。張衡は太史令となると、117年に水力渾天儀を作っています。張衡の有名な発明については後に述べることにして、今は歴史の流れに戻りましょう。


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後漢 外戚ケ氏の排除 安帝は宦官江京らの力を借りて邪魔になったケ一族を排除する 外戚としては最高級だったケ隲は排除され、絶食して死ぬ

 120年、安帝は息子の劉保を皇太子に立てます。劉保は115年生まれなので、5歳で太子に立てられたことになります。その母は李宮人ですが、息子の立太子を見ることはできませんでした。同じ115年に立后された閻姫は嫉妬深い性格で、李宮人を殺させてしまったためです。

 121年、ケ綏が世を去り、安帝は和熹皇后の諡号を贈って葬りました。しかし、安帝の内心には、ケ綏とその一族に対する恨みがあったようです。

 ケ綏はケ隲と共に安帝を立てたのではありますが、子供の頃から皇帝として何不自由なく育てられれば、よほど自制心がない限りはしっかりした大人に育つ布は難しいでしょう。安帝の粗が見えてくると、ケ綏は済北王と河間王の子を洛陽に集めて教育しました。特に、河間王の子の劉翼がケ綏に気に入られていました。

 安帝の乳母だった王聖は、安帝にケ綏は劉翼を立てようとしていると吹き込んでいました。そのため、ケ綏が死ぬと、安帝は宦官の江京らの力を借りてケ一族の粛清に乗り出しました。

 ケ隲が車騎将軍となって妹のケ綏と共に次の皇帝を決められるほどの力を持ったことは事実です。しかし、ケ隲は封を加増されることを辞退したこともありますので、貪欲な人物ではありませんでした。尚書を学び、経に詳しい楊震を推挙したように、人材の招聘も行っていました。

 ちなみに、楊震は関西の孔子と呼ばれるほど経に明るく、ケ隲に茂才に挙げられてからは荊州刺史や司徒、太尉などの役職を歴任しています。太守を務めている時に賄賂を贈られると受け取りを拒み、「誰も知りませんから」と重ねて進められると「天が知る。地が知る。我が知る。子(きみ)が知る。みんな知っているではないか」と言って、やはり拒否したことで知られます。

 ケ隲は他にも、母の喪に服すのに職を辞した後、復帰する際にはもとの高位に就くことを拒み、独裁はしませんでした。

 それでも、皇帝が滅ぼそうと決意すれば、一族は滅ぼされてしまうものなのです。ケ隲は流刑の途中で絶食して餓死し、その兄弟たちも自殺しました。



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