2020年05月01日

後漢 班超の死 中央への官吏推薦として孝行や廉潔が重要視されるようになる ようやく帰国を許された班超、帰国するも翌月に世を去る

 班超はこのように切々と訴える上奏を行います。班超の妹の班昭もまた、兄がどれほど西域を安定させるために尽くしたかを説き、寄る年波には勝てず病に冒され、異民族に攻撃されれば兄の体は心に従っては動かず、国家累世の功績すら損なってしまうでしょうと上書し、帰国を求めました。

 流石に朝廷も班超の帰国を認めることになります。

 101年、孝廉の推挙人数に変革が行われます。

 官僚として登用されるには前漢に引き続いて、賢良、方正、直言、極諫、茂才(元は秀才でしたが、劉秀の諱を避けて名前が変わりました)、孝廉などの徳目に従い、中央の高官や地方の郡太守が推挙する方式でした。その中でもとりわけ重要視されたのが、孝廉です。

 中央の高官だと、3公は2人、光禄勲は3人などと役職によって決められる人数を、地方は郡国ごとに2人を推薦することになっていました。大きな郡は200万人を大きく超え、小さな郡は10万人未満でしたから、この方法だと著しく不公平となります。そこで、人口20万人ごとに1人と変更されました。推薦された者は郎となり、地方の官吏に任命されます。これは親族にコネのない者には出世の数少ないルートとなりました。

 孝廉の孝は父母に孝行であること、廉は清廉潔白を意味します。畢竟、出世のために孝行や清廉を装う者が続出します。彼らは出世のために演技をしているに過ぎませんから、登用されると孝行も清廉も放り捨てるケースが出たそうです。

 本末転倒な話ではありますが、人の悲しい気質なのでしょう。こうした事例を見ると、テストの点で採用を決めるのは悪いことではありませんね。少なくとも、テストで高い点を取る能力があることだけは偽ることができませんから。

 102年8月、班超は遂に生きて洛陽の土を踏みました。西域に赴いて、31年という長い年月が流れていました。班超は宿衛の兵を司る射声校尉に任じられましたが、すでにその体は病に冒されていました。皇帝は中黄門を遣わして薬を与えますが、その甲斐なく、翌9月に世を去りました。享年、71でした。


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2020年05月02日

後漢 宦官の専横 班超の後任の任尚、班超の忠告を聞かずに西域の離反を招く 和帝を助けて竇憲を失脚させた鄭衆は侯に封じられ養子をとる

 後任の戊己校尉任尚(じんしょう)は、班超に西域を運営する秘訣を尋ねます。班超は、「私はもう老いて、知恵を失いました。任君は重要な官職を歴任してきたのですから、私の言うべきことは無いと思いますが、どうしてもとおっしゃるなら愚言を進めましょう。塞外の兵士、役人は罪を犯してこの地に送られてきた者たちで、もともと孝行で親に従うような者たちではありません。しかも、夷狄の民は鳥獣のような心を抱き、養うことは困難で、失敗を繰り返します。君は性格が厳しく性急です。水清ければ大魚はなく(水清ければ魚棲まずの語源)、察政は下の者の和を得ません。小さな過ちは許しておおらかにしながら、根本の原理原則を護るようにすればよいのです」と語りました。

 任尚は「班超には奇策があると思って聞いてはみたが、平凡なことしか言わないのだな」と親しい者に感想を述べています。しかし、任尚が赴任して数年で西域諸国は叛き、任尚は罪とされて中央に召されました。班超が忠告したことが守られなかった故でした。西方の国々が離反していくことを受け、任尚はこの後も西域で多くの作戦に従うことになります。

 西域事情にやたらと首を突っ込んでしまいましたね。ここで中央についても見おきましょう。

 和帝は10歳で即位したのでしたね。養母である竇太后の一族が実権を握り、特に竇憲の暴虐は酷いものでした。竇一族排除に和帝が頼ったのは宦官の鄭衆でした。竇憲らが排除された後に権力を握ったのは、鄭衆たちです。

 鄭衆は章帝の時代に中常侍となり、権力絶頂期の竇憲にへつらわなかったことで和帝の信用を得ていました。そして、竇憲誅殺後は宦官の最高位である大長秋に任じられます。

 班超の帰国と同じ102年には、鄭衆は鄛郷侯に封じられます。宦官が侯に封じられたのは鄭衆に始まります。それだけではなく、養子を取ることが許されました。養子制度はこの後に他の宦官へも拡大されていきます。


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2020年05月03日

後漢 紙献上 鄭衆とともに権力を握った蔡倫、105年に紙を献上する ただし、紙そのものは前漢からも発見されている

 宦官は子孫を持つことを許されませんでしたから、彼らの蓄財も所詮は一代限りのものですから、かわいいものでした。ところが、養子を取ることができるようになると、子孫のために蓄財を図るようになっていきます。

 鄭衆本人は忠誠心篤く頭脳明晰な人物だったので権力を壟断するようなことは無かったのですが、宦官に与えた絶大な権力は引き継がれていきます。そのため、和帝以降は宦官が大きな力を握り、後漢は以後宦官と外戚とが激しい権力争いを演じ、国力が低下していくことになります。

 この時、鄭衆とともに権力を握ったのが、中常侍の蔡倫です。

 蔡倫は明帝の時代である、75年に宦官として後宮に入りました。篤実な性格、学問を好む姿勢などで89年には中常侍にまで昇進しています。そして、天子の使うものを制作する部署の長官である尚方令を兼ねました。

 105年、蔡倫が和帝に紙を献上します。

 この記録から、一般に蔡倫が紙の発明者とされています。しかし、植物のもつセロルースを成形した紙であれば、実際にはもっと古い時代から紙は使われてきました。『紙 二千年の歴史 - バスベインズ,ニコラス・A., Basbanes,Nicholas A., 芳江, 市中, 由美子, 御舩, 正弘, 尾形』には「シカゴ大学の著名な中国歴史研究者である銭存訓は、中国の紙の歴史を余すところなく記述した1985年の労作のなかで、現存する最古の紙は、1957年に陝西省の古墓で発見された紀元前140年頃の断片であろうと記している」(漢数字は引用者がアラビア数字に置き換えた)とある通り、前漢の時代には既に紙が使われていたのは確実です。

 当然、前140年の墓に収められた紙は史上最初に作られたものではないはずです。少なく見積もっても、紙は蔡倫の時点で250年を越える歴史を経てきていたのです。紙に変わる書写材料として、稀に絹が使われることもありましたが、絹は生産性に欠けることもあり、極めて高価なものでした。

紙 二千年の歴史 - バスベインズ,ニコラス・A., Basbanes,Nicholas A., 芳江, 市中, 由美子, 御舩, 正弘, 尾形
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2020年05月04日

後漢 紙の製法と性質 紙の剛性をもたらす水素結合のありがたみ

 後漢書(興味深いことに、後漢崩壊後の混乱期である三国志の方が先に書かれ、後漢書の成立は南宋をまたなければなりません)には、蔡倫が樹皮、麻、ボロ布、魚網から紙を作り出す方法を発見したと記されています。その作り方を『紙 二千年の歴史 - バスベインズ,ニコラス・A., Basbanes,Nicholas A., 芳江, 市中, 由美子, 御舩, 正弘, 尾形』から引用しておきます。

 中国で最初の紙は、范曄が記しているように、靭皮(樹皮の内側からすくい取った柔らかい線維性の内皮)と古い魚網、ぼろ布、網をほぐして集めた麻を混ぜたものからつくられた。蔡倫の方法によると、材料をすべて洗って水に漬け、木槌で細かく砕いたあと、きれいな水を入れた桶に入れて激しくかき混ぜ、ほぐされた細かい繊維が水中を漂うようにする。次に、繊維が浮く水をひしゃくですくい、粗布をぴんと張った四角形の竹枠(漉具)に上から均等に流し入れ、その枠を支柱と支柱の間につるす。


 水が滴り、あるいは蒸発して無くなると、紙が残されるというわけです。これらの細かな繊維は、水素結合で結びついています。水素結合とは、化学物質中の水酸基(-OH)が物質同士を緩く結合させる仕組みです。

 水酸基の中で、酸素原子(O)はややマイナスに、水素原子(H)はややプラスに帯電しています。そのため、ある分子の水素原子は、隣の原子の酸素原子にも吸引され、弱く結びつくのです。最も身近にある水素結合の一つは、間違いなく水です。水は水素原子2つと酸素原子1つが結びついた、分子量18という非常に軽い分子です。もし水素結合が存在しなければ、水はたとえば分子量71の塩素(沸点-34℃)はおろか、分子量28の窒素や分子量32の酸素よりも低い、-200℃程度だったことでしょう。生物が生まれる可能性はありません。水素結合に感謝ですね。

 さて、紙が発明されたのは蔡倫より世紀の単位で遡ることができることが明らかになりましたが、ではなぜ、蔡倫が紙の発明者とされるのでしょうか。

紙 二千年の歴史 - バスベインズ,ニコラス・A., Basbanes,Nicholas A., 芳江, 市中, 由美子, 御舩, 正弘, 尾形
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2020年05月05日

後漢 紙の発明者 蔡倫以前に紙は存在したにも関わらず蔡倫が紙の発明者とされる理由について

 ヒントになるのは蔡倫以前に紙は存在していたこと、にも関わらず、書写材料として多く用いられたのは紙ではなかった、ということです。秦の始皇帝が仕事量を重さで量っていたのは木簡や竹簡を前提に考えなければ筋が通りませんし、前漢の皇帝の命令が刻まれた木簡が多数発見されています。ということは、大量生産に適した方法を考え出したのかもしれません。

 製紙の発明者が蔡倫でないなら、なぜ蔡倫の名がそれほどはっきりと記憶されているのかという疑問が湧く。ほかの大発見の経緯を思い起こすと、製紙の技法を完成させたか、商業化に成功したか、そのどちらかが蔡倫の業績だった可能性はあるし、紙を書写媒体にしようと最初に気づいたのが蔡倫だったのではないかと考える一部の史家もいる。初期の態様は包装、とくに薬を包むのに用いられたが、包み紙のなかには文字がかかれているものもあった。「蔡倫紙」は質がよかったのだろうか?用途が広かったのか、それとも値段が安くて入手しやすかったのか?彼の名声の理由はやはり謎である。
(『紙の世界史: PAPER 歴史に突き動かされた技術 - カーランスキー,マーク, Kurlansky,Mark, 智子, 川副』)

 『紙の世界史』が記す通り、蔡倫の貢献の真の意義は分かっていません。前漢で出土する紙が書写材料ではなく、なにか物を包むためのものだったことが謎を解く鍵になりそうです。

 蔡倫の献上より古い時代の紙は、叩いてばらばらにした麻の繊維を布の上で乾かしたものでした。厚く、きめが粗く、凹凸があったそうなので、とても文書に用いることはできなかったのでしょう。服にも用いられたというのですから、その質が窺えようというものです。

 そう考えれば、蔡倫が発明したのは薄く、かつ均一な厚さで紙を作る方法ではないかと思えます。凸凹な面に筆で文字を書くのはさぞ困難なことでしょうから、均一な厚さと考えるのは筋が通っていると思うのですが、皆様は如何でしょうか?

 蔡倫の発明かどうかは置くにせよ、薄く均一な紙はたちまち書写材料の主役の座へ駆け上ります。

紙の世界史: PAPER 歴史に突き動かされた技術 - カーランスキー,マーク, Kurlansky,Mark, 智子, 川副
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