2020年04月29日

後漢 漢書の成立 竇憲が死んだことを奇貨とした洛陽令は班固を獄死させる 妹の班昭はその後を継いで漢書を完成させた

 洛陽令の種竸は班固の免官を奇貨とし、彼を獄に繋いでしまいました。実につまらない話なのですが、かつて班固の奴婢が種竸の車馬の列に入り込み、追い出されようとしたところ、酔った勢いに任せて罵ったことがあったのです。種竸は班固を激しく憎んだのですが、竇憲がバックにいると思って手が出せなかったのです。

 竇憲が自殺し、その輩が逮捕されたタイミングで、種竸はこの恨みを晴らすこととして班固を逮捕したのでした。老いた班固は耐えることができず、そのまま獄死しました。班固61歳の時のことでした。

 この時、漢書はまだ完成していませんでした。未完成の漢書を完成に導いたのは、その妹の班昭です。

 班昭は14歳で曹世叔に嫁いだのですが、夫とは早くに死に別れています。どうやら班彪は娘にも教育を施したようで、その才名を聞いた和帝が宮中に召し入れ、後宮の女性たちの教育係となりました。

 班固が死ぬと、班昭は八表と天文志を追記して漢書を完成させました。その他にも『続列女伝』を選定したり詩賦を残したりと、多方面で活躍しました。

 94年、班超は焉耆、尉犁などを討ち、その王を斬ります。また、南単于安国の従兄弟の子の逢侯が叛き、一味を連れて塞外へと去ります。後漢は光禄勲のケ鴻に車騎将軍を兼ねさせこれを攻撃させます。護烏桓校尉の任尚もまた烏桓と鮮卑を率いて逢侯を攻撃し、これを破りました。

 97年、班超は部下の甘英を遥か西方にあるという大秦へ派遣します。大秦はローマを指すと考えられているため、中国史上かつてないほどの長旅ということになります。甘英は軍を率いて西進し、安息の西の境である「西の海の海岸」にまで至った伝えられます。この安息とはアルサケス朝パルティア西の海とはペルシア湾と推測されています(地中海とする説もあります)。

 ペルシア湾を往復するには、順調なら3ヶ月だが遅ければ2年かかり、多くの者が帰ってこられないと聞いて渡航を断念しました。陸路もあったはずですが、パルティア側は甘英には明かしませんでした。直接貿易を行うようになってしまえば、中継によって利益を得ていたパルティアのためになりませんから、無理もないことです。


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posted by 仲井 智史 at 11:54| Comment(0) | 後漢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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