2020年04月28日

後漢 班超の奇策 多勢の月氏軍の弱点は補給にあると読んだ班超、焦土戦と敵の通信を遮断して勝利する 

 班超の兵は少なく、まともに戦えば敗北は確実という情勢でした。兵士たちは皆、大いに恐れます。しかし、班超は「月氏の兵は多いと言うが、難路を数千里も越えてくる。補給もない。憂える必要があろうか。周辺から食料を集めて堅守すれば、敵は窮乏して自ら降るであろう。数十日もかからず勝負はつく」と断言し、周辺から食料を撤去した上で籠城します。

 月氏は予想通りこの焦土作戦で食料難に陥り、兵士たちは飢えに苦しみます。窮した挙げ句に、月氏は班超を攻撃しましたが、破ることはできず、周囲から略奪しようにも得るものもありませんでした。そこで、亀茲に援助を求めるべく、貢物の金銀珠玉を持たせた使者を派遣します。

 しかし、班超はこの動きを読み切っていました。数百の兵士が使者一行が来るのを手ぐすね引いて待ち構えていたのです。伏兵は月氏の使者を尽く斬り、謝にその首を示しました。謝は震え上がり、生きて返して欲しいと願います。班超は帰国を許しました。これにより、月氏は毎年の貢納を行うようになりました。

 翌91年には、亀茲、姑墨、温宿らが後漢に降ります。後漢では亀茲に王を挿げ替え、西域を安定化させました。この功績で中央は班超を西域都護に任じ、徐幹が長史となりました。

 92年、北匈奴の右谷蠡(うろくり)王於除鞬(おじょけん)が単于を称し、後漢に降ります。後漢はこれを受け、璽綬を授けています。ただ、於除鞬は翌年に背いて中郎将の任尚に滅ぼされていますから、後漢を利用しようとして失敗したと見るべきでしょうね。なお、任尚についてはもう少し後に見ることになります。

 同じく92年、後漢の政治情勢が激変を迎えます。

 外戚の竇憲やその息子の竇畳、竇磊、娘婿の郭挙らは、禁中に出入りして竇太后に可愛がられ、高い位を得て、絶大な権限を握っていました。彼らからすれば、幼く実務を何も知らない皇帝は邪魔者でしかなかったようで、いつしか和帝を殺して帝位を簒奪しようと考えるようになります。


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posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 後漢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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