2020年04月23日

後漢 南道開通 進むことを恐れた李邑の讒言もあったが、皇帝の信任を得た班超は西域諸国を順調に下し、南道を漢の支配下に置く

 ところが、李邑は于闐に至ると、亀茲が疏勒を攻撃するのではないかと恐ろしくなって進むことができなくなってしまいます。しかし、中央へは「西域での作戦が成功するとは考えられません。班超は妻と子を得て外国で安穏と暮らし、内心を顧みる気持ちもありません」と班超を讒言して保身を図ります。

 章帝は班超が忠実であることを知っていたので、逆に厳しく李邑を責め、「班超はたとえ愛妻を擁して愛児を抱こうとも、国に帰りたいと思う兵士は千余人もいるのだ。彼らが尽く辺境に留まり続けたいなどと思うはずがあるまい」と伝えます。

 そして、李邑を班超の下に付けました。班超は讒言のことを知っていたのですが、敢えて烏孫の人質を洛陽に護送させて追い払いました。徐幹は「李邑は君を誹り、西域を破滅させようとしたのですぞ。なぜここに残さなかったのですか」と問います。班超は、「だからこそである。鬱憤を晴らすために彼を残すようでは、忠臣とは言えない」と答えたそうです。

 翌84年、司馬の和恭ら4人が800人の兵士を引き連れて班超の援軍にやってきます。班超は疏勒、于闐の兵士を加えて莎車を攻撃しました。

 莎車は密かに疏勒王の忠に多くの珍宝を与え、離反を誘いました。疏勒王忠は班超に叛き、西の烏即城に立て籠もりました。

 班超は疏勒の大臣の成大を王に立て、背かなかった者を率いて忠を攻撃します。しかし、康居が忠を救けるために精兵を差し向けたため、班超は勝利を得ることができませんでした。班超はこのようなときに、武力一辺倒の解決を図る人物ではありません。即ち、班超は康居王と姻戚関係にある月氏王に多くの贈り物をして康居王に後漢側に付くよう説得させます。康居王は兵を引き上げ、烏即城は班超に降伏しました。

 3年後の87年、忠は康居王を説き伏せて兵を借り、亀茲と密約を交わした上で、偽って班超に降ります。班超は忠の本心を知りつつ、受け入れたふりをして、降伏を認めました。忠は喜び、軽騎兵を率いて班超の下へやってきます。班超は兵士を引き連れて待ち構え、宴会のために設営させます。そして酒が巡ると、忠を捕縛して斬り、忠が率いてきた軽騎兵も攻撃して打ち破りました。

 こうして、前漢末以来失われていた遂に南道が通じたのでした。


面白いと思ったら押して下さると嬉しゅうございます^^

人気ブログランキングへ
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 後漢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
面白いと思ったら押して下さると嬉しゅうございます^^
人気ブログランキングへブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村