2020年04月20日

後漢 明帝の死 75年、恤民政策を取り続けた名君、明帝が死に、19歳の章帝が即位する 馬援の娘の馬皇后が補佐する

 75年、明帝が死去します。享年48と伝えられます。現在の基準で言えば若すぎるくらいですね。後漢書はその治世について、「刑は重くなく、法令は分かりやすく明らかであった。日が暮れるまで朝廷で仕事に励み、無実な者の疑いは必ず晴らした。内外に邪な私事を行うことはなく、天子の座にありながら驕った素振りは見せなかった」と褒め称えています。

 その言葉通り、心優しき皇帝は寝廟を立てさせなかったり、墳丘を築かせなかったりと、薄葬を命じていました。国民に負担をかけさせない配慮だったのでしょう。

 19歳の皇太子劉炟(りゅうたつ)が即位します。これが章帝です。まだ若いので、明帝の皇后だった馬皇后が補佐することになりました。

 既に述べた通り、馬皇后は功臣馬援の娘で、明帝が即位してまもなく皇后に冊立されたのでしたね。ただ、馬皇后は章帝の実母ではありません。ただ、生母の賈貴人とは従姉妹どうしだったため、その関係は良好でした。馬皇后はかの馬援の娘でしたね。彼女は父の薫陶を受けたのか、事実上皇帝の権力を振るえる立場となっても身を慎みました。加えて、彼女は馬一族が高位高官に取り立てられることを拒否しました。外戚が最大の権力を持つのは、霍光や王莽を見ても明らかなように皇帝が死んで幼い新皇帝が即位した時です。そして、権力を壟断することは、しばしば一族を不幸に導きました。霍光は皇帝に尽くしたにも関わらず、その死後には一族が滅ぼされたところを見ても明らかです。

 控えめな馬皇后に補佐される章帝は、若くして寛容、儒学を好み、父の明帝から才器があると認められていました。

 即位すると大赦が行われ、人事を刷新します。そして、対匈奴体制を固めました。即ち、征西将軍耿秉を酒泉に駐屯させ、酒泉太守段彭を遣わして戊己校尉耿恭をその補助とさせました。

 同年、焉耆(えんぎ;カラシャール)は、後漢が喪に服していると見るや、兵を発して西域を攻撃し、西域都護の陳睦を殺して天山南道の連絡は切断してしまいました。班超は西域に孤立することになります。


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posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 後漢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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