2020年04月14日

後漢 楚王劉英の後始末 楚王の謀反に関与した者たちは次々と検挙される 処理に送られたのは有能さを知られていた袁安

 劉英やその一族への処遇は大甘だったわけですが、讖緯偽造事件に関与した者には厳しい処置が待っていました。親戚であれ、諸公であれ、官吏であれ、許されることはなかったのです。数千人が検挙され、死刑または流罪となった者が千人余りにもなった、と伝えられます。擁護した者まで罪に問われたというのですから、尋常ではありません。

 讖緯は天の意を示すものとされていたわけですから、それだけ捏造事件は重大な犯罪と見られたのでしょう。

 楚郡に送られたのは、袁安という人物です。

 袁安の祖父は前漢末に太子の舍人となり、後漢建国後は県令になった袁良という人物ですが、他に目立って活躍した者はいません。また、袁安の父の名は伝わっていませんので、家自体も特に大きなものではなかったようです。袁安は県で官吏の任免や査定を行う功曹に任じられ、60年に孝廉に挙げられました。その後は県令を歴任し、公正な政治で高く評価されています。

 楚は法律が煩雑で治めにくい土地と見られていたので、有能な袁安が送られたのでした。袁安は楚郡に太守として赴任すると、役所に入るよりも前に監獄に赴き、再審理に取り掛かります。反乱に参加したというはっきりした証拠の無い者については無罪とするよう上申し、多くの者が無罪となって出獄しました。この処置が明帝の目に止まり、袁安は洛陽を含む首都周辺の地域を管轄する河南尹に抜擢されます。

 袁安は後に中央に戻り、最終的には3公の1つ、司空、更に司後漢は徒にまで昇進します。そして、その子孫からは何人も3公を輩出する名族となっていきます。後漢末の動乱にも、その子孫が大いに絡んでいく姿を見ることになります。

 73年2月、後漢は北匈奴に対して攻撃を仕掛けます。太僕の祭肜(さいゆう)が高闕より、奉車都尉の竇固が酒泉より、駙馬都尉の耿秉が居延より、騎都尉(光禄勲の属官)の来苗(らいびょう)が平城より出撃するという大掛かりな作戦でした。


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posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 後漢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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