2020年04月13日

後漢 楚王劉英の死 南北匈奴の分裂 70年、楚王劉英は反乱を起こそうとして露見、丹陽に移されるが、自害して果てる

 もちろん、劉英が中国最初の仏教信奉者であるはずがないので、この67年までには仏教がそれなりの支持を集めていたことは分かりますね。
同じ65年、明帝は北匈奴へ使者を送ります。

 匈奴は南北に分裂し、南匈奴が後漢と和親を結んでいたことは記しましたね。北匈奴は不安になり、後漢との和親を求めましたが認められませんでした。こうした経緯から、北匈奴は後漢に侵入しようとし、後漢は南匈奴の力も借りて北匈奴と対抗していました。そのような中、北匈奴がまた和親を求めてきたため、後漢としては北匈奴の侵入を防ごうと要求に応えることにしたのです。

 ところが、それを知った南匈奴は、後漢が北匈奴と結んで自分たちを攻撃しようとしていると勘ぐり、北匈奴と結ぼうとします。後漢は慌てて南北匈奴の交通を遮断して南匈奴との関係を深めましたが、北匈奴の侵入は続くことになります。

 67年、皇族や高官の子弟ために儒学を学ぶための学校を作ります。当然、この措置は登用に当たって儒学が重要視されることを示したことに他なりませんから、後漢においても儒教が定着していくことになります。

 70年、楚王劉英は反乱を起こそうとして露見します。

 劉英は方術の士を近づけ、金の亀と玉の鶴を作り、文字を彫って符瑞としたのです。後漢も引き続き讖緯が尊ばれたことは記しましたね。それは同時に、讖緯をでっち上げることは天の権威を利用して社会を動かそうとする大罪でもあるということです。劉英の行動は密告により、明らかにされたのでした。

 調査にあたった役人は、劉英が悪賢く狡い連中を集め、讖緯を捏造し、大逆不道であるから誅殺すべきであると上奏しました。明帝は過酷な処置を望まず、結局、劉英は楚王こそ廃されたものの、丹陽にうつして化粧料の名目で500戸を与えられました。更に、奴婢や工匠、楽団なども付け、幌車に乗って狩に出かけられるように配慮もしています。王子や公主は国を没収されることはなく、劉英の母の許氏は印綬を帰すことも求められず、楚の宮殿に住むことが許されました。

 しかし、翌年に劉英は丹陽で自殺してしまいます。こうして国は除かれました。


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posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 後漢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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