2020年04月12日

後漢 仏教伝来 中国に仏教が伝来した年代は不明だが、歴史書にはっきり証拠が見えるのは明帝の弟の楚王劉英の事例から

 また、同時期に皆既日食が起こったことを受け、「朕は徳も無いのに大業を継承し、下は人の恨みを残し、上は天文を動かしてしまっている。日食の変事は災の最も大きなものと春秋の図讖にあるとおりである。その咎は朕1人にある。吏たちは職務に励み、上申すべきことがあればためらわずに行うように」との詔を出しました。

 詔に応じて多くの上申があり、明帝はそれを深く受け止めたとのことです。この逸話に見られる通り、明帝もまた絶対的な権力を持つ皇帝としては破格に良い皇帝だったこと、そして父の光武帝劉秀と同様に図讖を重要視したことが分かりますね。

 65年、明帝は死罪とされた者は絹帛を納めればこれを許すとの法令を発布します。

 楚王劉英は法令を受け、自分は楚王として多くの過ちを犯してきたので、「大恩に感謝し、絹帛を奉り罪を償なおうと思います」と上奏します。

 劉英は劉秀と許氏との間の子で、明帝にとっては異母兄に当たります。許氏は劉秀の寵愛を受けていなかったため、王子たちのなかで与えられた封地は最も貧しく、狭かったそうです。若い頃は遊侠と親しみましたが、年をとってからはただ、明帝は自分が皇太子だった時から劉英と親しかったので、明帝が即位すると何度も賞賜を授けられました。

 この時、明帝が劉英に下した詔に、「楚王は黄老の深遠な文章を諳んじ、浮屠の祭を尊び、3ヶ月に渡って潔斎して神と誓いを行っているのだから、何を疑うことがあろうか。何か悔いていることがあるだけであろう。納めたものは返却するので、信者や斎戒のために使うがよい」とあります。

 注目すべきは「浮屠」、つまりブッダなる言葉が見えることです。

 中国への仏教伝来は、67年に明帝がインドから僧を招聘したことに始まり、翌68年に中国最初の仏寺である白馬寺が建設された、と魏書釈老志は伝えます。しかし、これは2世紀ごろに作られた、架空のものとの指摘があります。他にも、秦の始皇帝、前漢の武帝時代という説もありますが、それを明示する史料は存在しません。史料的な裏付けという点では、この後漢書の記事が最初のものです。


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posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 後漢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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