2020年04月10日

後漢 明帝即位 明帝即位の朝廷では建国の功臣の1人、竇融の一族が多くの力を握っていたため、明帝は竇一族の力を削ぐ

 さて、明帝即位直後の朝廷では、なんといっても竇一族が大きな力を持っていました。河西の人びとを率いて劉秀に降ったことは西方への進出を有利にしたこともあり、竇融のみならず一族が重用されました。

 竇融はまだ存命中で、竇一族の多くの者が重く用いられていました。そこに加えて竇融の従兄弟の子竇林が護羌校尉に任じられます。この時、竇融の長男の竇穆、更に竇穆の子の竇勲、竇友の子の竇固がそれぞれ公主を娶っていたため、竇氏は「1公(大司空)、両侯(安豊侯、顕親侯)、3公主、4二千石(衛尉、城門校尉、護羌校尉、中郎将)」を得たと言われました。

 強力な力を持つ臣下がいることは、やる気のある皇帝には邪魔になります。少々歴史の流れを措いて、竇穆らの末路を見てしまいましょう。

 59年、竇林が収賄と上奏に誤りがあったことを嘘で糊塗しようとしたことで誅殺されます。明帝はこのことで竇融を何度も責めたので、竇融は辞職を願い出ました。明帝は衛尉の印綬返上を認め、ウシと酒を賜りました。重鎮を体よく追い払ったと見るのが正しいように思います。

 竇一族の繁栄をもたらした竇融は恭謙で、驕った素振りは全く見せませんでした。今回の衛尉辞職以前にも、劉秀の時代からしばしば官位を返上しようとしたほどでしたが、一族はそのような者ばかりではありません。竇穆が軽薄な連中と親しく付き合って法律を犯すなど、やりたい放題でした。

 特に、62年に竇穆が娘を六安侯劉?(りゅうく)に嫁がせるため、陰太后の命令と偽って妻を去らせたことが露見したことから、竇穆は罷免され、竇勲こそ公主を娶っていたことで洛陽に残りましたが、他の一族の者もまた故郷に帰ることを求められました。

 竇穆は最終的に、役人に賄賂を贈ったことがわかり、親子ともども獄死しました。竇勲もまた、洛陽の獄で死去しています。

 こうして竇一族の多くの者は失脚していくのですが、驕ることなく政務に取り組む者は疎まれることなく、引き続き重要な役割を果たしていきます。


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posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 後漢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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