2020年04月09日

後漢 劉秀の死 倭の使者を迎えた翌月に劉秀は死去し、皇太子が即位する(明帝)

 さて、倭の使者を謁見した翌月の2月15日、光武帝は死去しました。その遺詔には、「朕は民に益を与えられなかったので、葬儀は文帝の時と同じように倹約を旨とするように。刺史を始めとする高官は持ち場を離れてはならない。部下を遣わして哀悼の辞を捧げてもならない」と命じました。

 劉秀はたまたま生きた時代に戦乱が起こり、その中で思いがけずに皇帝にまで至ったわけですが、軍事を好まず、戦乱で疲弊した天下が安定することを願っていました。隴西と蜀を滅ぼした後は軍旅を言わず、皇太子から戦争について聞かれた劉秀は「お前の及ぶことではない」とけんもほろろでした。怪しげな讖緯を信じたり、讒言を真に受けたりしたことはありますが、常識的な範囲の欠点であり、歴代の皇帝の中でも特筆すべき優れた皇帝であると思います。

 『資治通鑑』を著した司馬光は「光武帝が即位したころは、群雄がきそい合い、国中が沸きかえっていて、堅塁を破り強敵をうち倒す武勇の人や、謀略や弁舌の才智のある人たちが、世間ではもてはやされていたが、帝だけは誠実な臣を採用し順良な役人を表彰し、人物を民間から抜擢して諸大臣の上位に置いた。漢の旧制を復興し、長く帝位を伝えたのも、もっともなことであり、務めるべき第一のことを知ってその根本を得たからにほかならない」(『中国古典文学大系〈14巻〉資治通鑑選 (1970年)』)と讃えています。

 直ちに皇太子の劉荘が即位しました。これが明帝です。

 明帝は即位時30歳で、後漢書によれば下膨れでした。ええと、それをわざわざ記録する意義がさっぱり分からないのですが、とにかく歴史書に残すだけの価値があるほど下膨れだったのでしょう。

 10歳で『春秋』に通じ、父劉秀はこれを喜んでいます。皇太子に立てられた後は『尚書』も学んだということなので、学を積んだ成人が即位するという皇朝にとってこれ以上無い条件の人物が即位したことになります。また、春秋と尚書を学んだことから、儒学教育が一般的だったことも分かりますね。


中国古典文学大系〈14巻〉資治通鑑選 (1970年)
中国古典文学大系〈14巻〉資治通鑑選 (1970年)


面白いと思ったら押して下さると嬉しゅうございます^^

人気ブログランキングへ
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 後漢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
面白いと思ったら押して下さると嬉しゅうございます^^
人気ブログランキングへブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村