2020年04月04日

後漢 馬援の死2 武陵蛮は険阻な地に立て籠もって抗戦し、馬援をはじめ漢軍は暑熱に苦しみ、遂に陣没する

 しかし、馬援たちが進んでみると、反乱軍は高所に陣取って隘路を塞ぎ、大軍の接近を許しませんでした。水路を遡ろうにも、水の流れがあまりに速すぎてとても実行できません。

 加えて、厳しい暑さと疫病が襲いかかります。馬援もまた病に冒され、崖に穴を穿ってその中で暑熱を避けながら療養するしかありませんでした。

 それでも馬援は、敵が鬨の声を上げると足を引きずりながらその様子を伺いに出ていきました。

 耿舒は兄の耿弇に、「先に自分は食料の運搬は難しくなったとしても、ウマは動かしやすいので遠回りして機動力で賊を討つべきと上申しましたが、兵士たちはまず敵のものを奪おうと急峻な道を進みました。難路に当たって進むことができず、多くの者が気が塞いだまま死につつあり、痛惜すべき状況です。伏波将軍は西域の隊商のように休み休み進み、利を失いました。私の言った通りとなったのです」と書簡を送りました。

 耿弇は劉秀に弟からの書簡を奉りました。劉秀は婿で虎賁中郎将の梁松を送り、馬援を問責させ、さらに軍を監督させます。

 しかし、この人事は失敗でした。かつて、梁松が病床の馬援を見舞った際、梁松はベッドの下で拝したのですが、馬援はそれに答えなかった、ということがありました。馬援としては梁松の父と友人だったことから、特別扱いをしないようにしたのですが、梁松はこれを恨んでいたのです。

 馬援は病から回復することなく、遂に陣没します。

 梁松はもっけの幸いとばかりに、敗戦の責任を問うて馬援を罪に陥れました。劉秀は大いに怒り、馬援に与えていた新息侯の印綬まで没収しました。

 先に馬援が攻撃方針について上書して判断を求めていたことを考えると、劉秀の判断こそ誤っているように私は思います。

 劉秀の怒りに火を注いだのが、馬援の死後に彼を謗る上書が出てきたことです。馬援の妻子は後難を恐れて棺を旧来の墓に葬ることすらできず、賓客や親しかった人々ですら弔問に訪れませんでした。まともに埋葬ができるようになったのは、甥の馬厳が6度も哀切な上書を奉ってからのことでした。


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posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 後漢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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