2020年04月21日

後漢 班超の孤軍奮闘 撤退命令に従って班超が帰国しようとすると絶望した疏勒枉は自害、于闐の人びとは縋り付いて留まるように求める

 亀茲と姑墨はしばしば班超を攻撃します。しかし、班超は味方はわずかながらも城に立て籠もって攻撃を防ぎ続けました。章帝は班超が孤立無援で危険な状態にあることから、詔を下して班超に引き上げることを命じます。

 班超が疏勒を去ると、疏勒王は「漢の使いは私を見棄てた。これでは亀茲に滅ぼされるだけだ。使いが去るのを見届けるに忍びない」と言って自刃し、疏勒の2城は班超が去ると、亀茲に降伏しました。

 そして、班超が于闐に至ると、王侯以下が皆号泣しながら、「漢の使いにすがること、子が父母に対してするのと同じようなものです。どうか去らないでください」と泣きつきます。後漢書班梁列伝には「互いに超の馬の脚を抱き、行(すす)むことを得ず」(『後漢書〈第6冊〉列伝(4) 巻三十二〜巻四十三 - 范 曄, 吉川 忠夫』)とありますので、文字通りすがりついたようです。

 命令通りに帰国しようとすることを于闐が許さないように見えたこと、また、西域で功績を打ち立てるという班超自身の以前からの夢を叶えるため、班超は再び西へ向かいました。そして、亀茲に降った疏勒の城を攻撃し、疏勒を再び後漢の勢力に引き戻したのでした。


 78年、班超は疏勒、康居、于闐、拘弥(こうび)の兵1万を率いて姑墨石城を攻略し、首級700を得ます。亀茲を下す機会が訪れたと判断した班超は、上訴して増援を請いました。平陵出身の徐幹はかねてから班超と同じく西域での武勲を望んでいたため、上訴して自分が班超の助けになりたいと願います。章帝は上訴を認め、兵を送ることを決めたのですが、実際に西域に増援されるのはまだ先のことになります。

 同年、竇勲の娘が皇后に冊立されます。これが竇皇后です。

 竇勲は獄死していたため、その子の竇憲や竇皇后は幼い頃から親不在で育ちました。それは出世のためのコネもないということで、竇憲は妹の故に郎に取り立てられています。その後、竇憲は侍中と宿営の兵士を司る虎賁中郎将へ出世し、弟の竇篤もまた黄門侍郎となります。寵愛は非常に厚く、賜り物は累積して、外戚一族として力を持っていた陰一族、馬一族も竇一族をはばかるようになりました。


後漢書〈第6冊〉列伝(4) 巻三十二〜巻四十三 - 范 曄, 吉川 忠夫
後漢書〈第6冊〉列伝(4) 巻三十二〜巻四十三 - 范 曄, 吉川 忠夫


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2020年04月22日

後漢 外戚竇憲の排除 竇憲が公女からまで強引に土地を奪っていたことを知った章帝は激怒し、竇憲を免職する

 権力は腐敗するとの、権力を持つと驕りやすい人の弱い在り性質を上手く言い表した金言は、竇憲でもその正しさを示します。竇憲は明帝の娘の農園を廉価で奪い、公主は恐れて皇帝にも言えない有様でした。

 章帝がたまたま出駕して農園を通り過ぎた際、異常に気づいて竇憲にどうなっているのかと問います。もちろん、竇憲が答えられるはずもありません。章帝は「過去に過ちを犯した者どものことを深く考えよ。お前のやったことは趙高がシカを指してウマと言ったこととどう違うというのか。外戚となった陰氏とケ氏は常に監察しあい驕ることがないように務めたものだ。故に、外戚で罪を犯す者はいなかった。今、公主ですら田園を無理やり奪われるのだから、弱いものはもっと甚だしいであろう。国がお前を捨てるのは、親から離れた雛や腐ったネズミを捨てるくらい容易なのだぞ」と激怒しました。

 竇憲も皇后も謝り、竇憲は公主に田園を返しましたが、竇憲は役を免ぜられ、章帝は彼を再び重く用いることはありませんでした。

 80年、班超のもとへ援軍が到着します。

 これより前、莎車は後漢が援軍を出すことはないと考え、亀茲に降っていました。疏勒都尉の番辰もまた、後漢に叛いています。班超が孤立したことを受けて増援を決めたのは78年のことでしたから、班超は1年以上、寡兵で戦い続けたことになります。

 徐幹の率いる援軍を得た班超は、番辰を攻撃して首級1000以上を得、多くの捕虜(後漢書には生口と記されますので、奴隷かもしれません)を得ます。

 そして、いよいよ亀茲を攻撃しようと考え、烏孫と結んで亀茲を攻撃すべく中央に上書します。

 83年、班超を将兵長史(本来は将軍の部下に長史がつけられるが、将軍不在で長史の待遇を与える立場)とし、徐幹を軍司馬に任じます。そして、衛侯の李邑に烏孫の使者を護送させて錦や帛を届けさせようとしました。



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2020年04月23日

後漢 南道開通 進むことを恐れた李邑の讒言もあったが、皇帝の信任を得た班超は西域諸国を順調に下し、南道を漢の支配下に置く

 ところが、李邑は于闐に至ると、亀茲が疏勒を攻撃するのではないかと恐ろしくなって進むことができなくなってしまいます。しかし、中央へは「西域での作戦が成功するとは考えられません。班超は妻と子を得て外国で安穏と暮らし、内心を顧みる気持ちもありません」と班超を讒言して保身を図ります。

 章帝は班超が忠実であることを知っていたので、逆に厳しく李邑を責め、「班超はたとえ愛妻を擁して愛児を抱こうとも、国に帰りたいと思う兵士は千余人もいるのだ。彼らが尽く辺境に留まり続けたいなどと思うはずがあるまい」と伝えます。

 そして、李邑を班超の下に付けました。班超は讒言のことを知っていたのですが、敢えて烏孫の人質を洛陽に護送させて追い払いました。徐幹は「李邑は君を誹り、西域を破滅させようとしたのですぞ。なぜここに残さなかったのですか」と問います。班超は、「だからこそである。鬱憤を晴らすために彼を残すようでは、忠臣とは言えない」と答えたそうです。

 翌84年、司馬の和恭ら4人が800人の兵士を引き連れて班超の援軍にやってきます。班超は疏勒、于闐の兵士を加えて莎車を攻撃しました。

 莎車は密かに疏勒王の忠に多くの珍宝を与え、離反を誘いました。疏勒王忠は班超に叛き、西の烏即城に立て籠もりました。

 班超は疏勒の大臣の成大を王に立て、背かなかった者を率いて忠を攻撃します。しかし、康居が忠を救けるために精兵を差し向けたため、班超は勝利を得ることができませんでした。班超はこのようなときに、武力一辺倒の解決を図る人物ではありません。即ち、班超は康居王と姻戚関係にある月氏王に多くの贈り物をして康居王に後漢側に付くよう説得させます。康居王は兵を引き上げ、烏即城は班超に降伏しました。

 3年後の87年、忠は康居王を説き伏せて兵を借り、亀茲と密約を交わした上で、偽って班超に降ります。班超は忠の本心を知りつつ、受け入れたふりをして、降伏を認めました。忠は喜び、軽騎兵を率いて班超の下へやってきます。班超は兵士を引き連れて待ち構え、宴会のために設営させます。そして酒が巡ると、忠を捕縛して斬り、忠が率いてきた軽騎兵も攻撃して打ち破りました。

 こうして、前漢末以来失われていた遂に南道が通じたのでした。


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2020年04月24日

後漢 和帝即位 班超は数にまさる莎車を巧みな作戦で打ち破る 88年、章帝が亡くなり10歳の和帝が即位、以後後漢の国力は衰えていく

 翌88年、班超は于闐を始めとする諸国から2万5000の兵を集めて莎車を攻撃します。亀茲王は左将軍に5万の兵を率いさせ、莎車へ援軍を送りました。班超は諸国の昇降や于?王を集め、「我が方は兵が少なく、対抗することは難しい。撤退するしか無いであろう。私もまた、西へ帰ろうと思う。夜になるのを待って出発しよう」と告げました。

 この時、敢えて捕虜の捕縛を緩めておいたため、逃げ出した捕虜は亀茲王へ班超らが撤退しようとしていることを伝えます。亀茲王は喜び、自ら万騎を率いて班超の退路を、温宿王は8000の騎兵を率いて于闐の退路を塞ぐべく、兵を動かしました。

 班超は敵が移動したことを知ると、明け方に軍を糾合して莎車の軍へ攻撃を仕掛けます。不意を突かれた莎車軍は驚き、潰走しました。班超は逃げる敵を撃って5000を斬り、ウマや財物を鹵獲しました。莎車軍が大敗したことを知った亀茲軍や温宿軍は撤退し、班超の威名は西域を震わせました。

 88年、章帝が33歳で亡くなり、10歳の皇太子劉肇が即位します。これが和帝です。

 後世から見れば、ここまでが後漢のピークでした。 成人した皇帝が皇太子として準備期間を経た上で即位していたことで、 外戚が巨大な権力を握ることはありませんでした。それには、章帝を支えた馬皇后の存在も大きかったでしょう。皇帝に淵源を持つ権力を、外戚や宦官が争うということは無かったのです。

 班超に見られる外国への遠征もありましたが、国を上げた全面戦争とは様相が異なっており、国力が削がれることはありませんでした。恤民政策が引き継がれ、特に章帝が儒教を大切にした通り、学校も作られ多くの者が教育を受けていました。

 章帝は祖父光武帝や父明帝路線を引き継ぎ、黄金時代の一角を担いましたが、外戚を重んじる方向に舵を切ったこと、本人が若くして世を去ってしまったことから、以後は外戚が勢力を拡大し、それを嫌った次代の皇帝が宦官の力を借りて外戚を滅ぼすという、後漢衰退への道を開いたのでもありました。


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2020年04月25日

後漢 外戚竇憲 和帝は幼かったため、外戚の竇太后とその兄の竇憲が実権を握る 竇憲、斉殤王の子の劉暢を殺してその罪を他人になすりつける

 話を先に進めすぎたようですので、章帝が亡くなって和亭が即位したところに戻りましょう。

 後漢書梁統列伝によれば、和帝の実母は梁統の子の梁竦の娘に当たるそうです。梁竦には3男3女がおり、そのうちの2人が後宮に入っています。その小貴人が生んだ男児を竇皇后が養い、自分の子としました。梁竦らは喜んだのですが、竇一族はことが露見すると権力が梁一族に移ってしまうと考え、2人の貴人を殺し、梁竦を獄死させてしまいました。

 前漢でも散々見てきた通り、幼い皇帝が即位すれば、外戚が好きなように権力を振るうようになります。なにせ、幼い皇帝にとっては残された母の一族ほど強力な庇護者はいませんし、皇太后からすれば味方のいない朝廷で頼りになるのは親族だけです。そもそも、このような幼い少年を権力の座につけてはいけないのです。

 当然のように竇太后が臨朝称制します。その竇太后が頼ったのは、兄の竇憲です。

 竇憲はかつて立場を利用して公主の土地まで奪い、章帝から遠ざけられていました。その章帝が死んだのですから、竇憲の復権を妨げる者はもういません。その卑しい性根ととも、竇憲が復職しました。そして、竇憲の弟の竇篤を虎賁中郎将に任じるなど、竇一族を次々に中央や地方の要職に充てていきます。

 皇帝は幼く、自分が全権を握ったとなると、竇憲が如き人物が驕らないわけがありません。早速、刺客を送って父竇勲が獄死した際に取り調べに当たっていた韓?の子を斬らせ、斉殤王の子の劉暢が首都にやってくると寵愛されて自分の力を削られるかも知れないと案じて劉暢を刺殺させる有様でした。なお、この刺殺事件の罪は劉暢の弟の劉剛になすりつけられ、裁判が行われています。

 劉暢の件は竇太后の知るところとなり、太后は怒って竇憲を内宮に閉じ込めました。


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