2020年04月16日

後漢 班超登場 竇固が西域へ出撃した際に、部下の班超を西方へ送り込む 班超の出自について

 パミール高原の更に西方には、前漢時代に大宛(李広利が汗血馬を求めた国でした)や大月氏、安息などの国がありました。このうち、大月氏の5つの翕族の1つの貴霜翕侯が大月氏国を統一しただけではなく、安息などを服属させて貴霜国となっていました。これが、中国の西域からインド北部にまで至るイラン系の大国、クシャーナ朝です。後漢では引き続き大月氏国と呼び続けていました。

 長々と述べてきましたが、西域諸国は匈奴、莎車などのその時の強国に従っていた、と理解すれば良いでしょう。

 中国の支配を離れて久しい西方に、竇固は部下の班超を送り込みます。

 班超が出てきたところで、彼の一族について見ておきましょう。

 班一族は扶風出身で、班超の父は班彪といい、このブログでは北匈奴が和親を求めて使者を送ってきた際に、南匈奴との関係から和親はせず絹帛を贈って懐柔するべしと進言し、取り上げられたことを紹介しています。

 班彪の祖父の班況は班況は成帝の時代に越騎校尉、父の班稚は哀帝の時代に広平の太守となっています。 班彪は落ち着いた性格で古典を好みました。新末の動乱では、難を避けて隗囂の下へ身を寄せていいます。隗囂は班彪に、「先生、幾つもの国が並び立つか、あるいは1つの国にまとまるか、論じてみてください」と言われ、「今各地で王を名乗っている者はいずれも戦国時代の王の末裔ではなく、多くが劉氏を名乗っていて民は漢の徳を慕っていますから、推して知るべしでしょう」と漢復興を主張します。論拠は随分怪しいように思います。隗囂は「周と漢はぜんぜん違う。秦が天下を失って劉邦がこれを得たわけですが、当時の人は誰も漢など知りませんでしたぞ」と反論します。

 至極もっともですね。班彪はこの返事を憎み、『王命論』を著して漢は堯を受けているのだと主張しました。遂に隗囂に見切りをつけ竇融に従い、その縁で劉秀に仕えました。劉秀は竇融のところからあがってくる上奏文が見事だったことから、「上奏は誰と作成しているのか」と問い、竇融が素直に「班彪です」と応えたところから、班彪は劉秀の目に止まります。そして茂才に挙げられて徐の令となりましたが、病気に罹って引退し、歴史書を書き始めました。


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2020年04月17日

後漢 漢書 班超の兄の班固、文を愛した章帝の許可を得て禁中の書も利用し、父の後をついで漢書をほぼ完成させる

 司馬遷が史記を著して以来、好事家が時たまその当時の歴史を編纂はしましたが、とても史記を継ぐようなものはできませんでした。班彪は前代の史書を紐解き、異聞を集め、それをまとめた上で得失を明らかにしました。賦、論、書、記、奏事合わせて9篇を編みましたが、志半ばにして52歳で世を去りました。54年のことです。

 班彪には班固、班超の2人の兄弟と娘の班昭の3人の子がいました。そのうち、父の文章への情熱を引き継いだのが班固です。

 班固は9歳で文をよく綴り、詩賦を諳んじ、成長すると多くの本を読みました。9流100家(道家、儒家、墨家、名家、法家、陰陽家、農家、雑家、縦横家)のことをよく知っていたというので、博覧強記だったのですね。それも、一章一句に拘泥するような読み方ではなく、大義を理解すれば良いという考えだったというので、私も師とするならこのような方が良いと思います。

 一方、弟の班超は文ではなく武で身を立てることを選びました。

 班固は父が死ぬと、故郷に帰って班彪が果たすことのできなかった歴史をまとめる仕事を成し遂げようとします。しかし、何者かが明帝に、「班固は国の歴史を改変しようとしております」と密告しました。班固は郡の獄に下され、家にあった本は押収されました。

 班超は兄が拷問に屈して偽りの罪を自白してしまうのではないかと恐れ、兄の真意を弁明しました。明帝は班固を許し、蘭台の令史に任命し、同僚と共に世祖本紀(光武帝劉秀の伝記)を編纂させることとしました。仕事ぶりが認められて郎となり、平林や新市で蜂起した人びとのことや公孫述のことなどをまとめて奏上したことで、明帝は班固が歴史を捻じ曲げようとしているわけではないことを知り、班固が班彪の仕事を継ぐことを認めました。

 班固が20年余りをかけて編纂したのが漢の高祖劉邦から王莽が滅びるまでを記した『漢書』です。

 章帝は文を好んだため、班固は禁中の書を読むことを許されました。日を連ね、夜を継いで書を読んだと伝えられます。我々活字中毒者の鑑とすべき人物です。


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2020年04月18日

後漢 班超の野心 役所の仕事中に張騫のような存在になりたいと言って笑われた班超が竇固の西域遠征に参加、35人の部下を率いて鄯善(楼蘭)へ

 班超は兄と共に歴史を学びました。父が死んだ後は家中で必死に働き、辛いことや惨めなことがあっても恥とはしませんでした。兄の班固が召されると、班超は母を連れて洛陽に赴きます。家は貧しかったので、役所で文書の書写で糊口を凌いでしました。しかし、心は兄とは全く別のことを望んでしたのです。

 ある時、班超は筆を投じて、「大丈夫たるもの、桜蘭王を刺殺して侯になった傅介子や西域張騫の倣って外地で功績を挙げて侯に封じられるべきだ。どうしていつまでも文書ばかりあつかっていられようか」と嘆き、周囲の者に笑われています。この逸話から分かる通り、班超は西域で功績を立てることを切望していたのです。

 一度、蘭台の令史となって文書を扱う仕事に就きますが、事件に連座して免官されます。そして、竇固が匈奴に出撃する際に仮司馬として採用されていたのでした。

 班超は35人の部下を率いて鄯善(楼蘭)に赴きます。鄯善の人びとは班超らを歓迎したのですが、途中で雰囲気が変わります。北匈奴の使者がやってきたと確信した班超は、班超の応対係となっていた?善の者に「匈奴の使者がきて数日経つが、彼らはどこにいるのであろうか」とかまをかけます。侍者は恐れ、全てを洗いざらい告白しました。

 鄯善が北匈奴と修好を望むのであれば、後漢の使者は邪魔者以外の何物でもありません。部下たちはこのまま殺されるのではないかと恐れ、怯えました。班超は「虎穴に入らずんば虎子を得ず」と言って部下を励まし、直ちに攻撃しようと言いますが、兵士たちは従事の郭恂と相談しようと主張します。班超は「吉凶は今日決するのである。従事は礼法やら習俗やらを守るしかできない小役人にすぎぬ。相談しても恐れて謀を漏らしてしまうだけだ、死後に名声を讃えられないような者は勇者ではない」と言うと、部下たちも納得しました。


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2020年04月19日

後漢 西域諸国の服属 班超は鄯善で匈奴の使者を撃退して鄯善を服属させ、更に于窴国(ホータン)や疏勒(カシュガル)に向かう

 班超に率いられた兵士たちは北匈奴の使者が泊まっている野営地へ向かいます。そして、まず10人に太鼓をもたせて建物の後ろに潜ませ、「火が燃えているのをみたら太鼓を鳴らし、大声で叫べ」と命じます。そして、残った兵士たちには弩を準備させた上で、火を放ちました。その日は風が強く、火は風に煽られて勢いを増します。北匈奴の使者が驚き慌てたところを班超らは攻撃、30人余りを斬り、100人ほどを焼死させました。

 事後にそれを知った郭恂はこの巨大な功績が班超だけのものになるのかと顔色を変えましたが、班超は手柄を1人占めしないことを告げ、安心させました。班超の郭恂評が正しいなら、些事にこだわる小役人なのに手柄だけは求めるという小人物に見えますね。

 北匈奴の使者の首を見せられた鄯善王は後漢に服属することとなりました。

 顛末が中央に伝わると、明帝は喜び、班超を軍司馬に任じて引き続き西方での作戦を命じます。竇固はさすがに30人余りでは兵が少ないと、班超に多くの兵士を与えようとします。しかし、班超は「もとから従っている30人余りを率いれば事足ります。もし不測の事態が起こったら、人数が多ことは災となるかもしれません」と言って増援を断り、行動を続けました。

 班超は続いて于窴国(ホータン)王を降伏させ、冬には疏勒(カシュガル)に向かうと、亀茲(きじ)が傀儡として擁立していた亀茲人の王を捕えます。そして、亀茲に殺されてていた前疏勒王の甥にあたる忠を立てて疏勒王とするなど、天山南道の国々を後漢に服属させることに成功しました。周辺の国々を後漢が庇護したことで、交易路が復活しています。

 74年には奉車都尉竇固、駙馬都尉耿秉、騎都尉劉張らが敦煌や崑崙塞から出撃し、白山の匈奴を攻撃します。白山とは、夏まで山頂に雪が残ることから名付けられた山で、匈奴の人びとは天山といい、麓を通る際にはウマから降りて遥拝するという山です。後漢軍は匈奴を破り、車師国に至りました。そして、鄭吉を西域都護とし、また戊己校尉を復活させて西域経営に乗り出しました。


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2020年04月20日

後漢 明帝の死 75年、恤民政策を取り続けた名君、明帝が死に、19歳の章帝が即位する 馬援の娘の馬皇后が補佐する

 75年、明帝が死去します。享年48と伝えられます。現在の基準で言えば若すぎるくらいですね。後漢書はその治世について、「刑は重くなく、法令は分かりやすく明らかであった。日が暮れるまで朝廷で仕事に励み、無実な者の疑いは必ず晴らした。内外に邪な私事を行うことはなく、天子の座にありながら驕った素振りは見せなかった」と褒め称えています。

 その言葉通り、心優しき皇帝は寝廟を立てさせなかったり、墳丘を築かせなかったりと、薄葬を命じていました。国民に負担をかけさせない配慮だったのでしょう。

 19歳の皇太子劉炟(りゅうたつ)が即位します。これが章帝です。まだ若いので、明帝の皇后だった馬皇后が補佐することになりました。

 既に述べた通り、馬皇后は功臣馬援の娘で、明帝が即位してまもなく皇后に冊立されたのでしたね。ただ、馬皇后は章帝の実母ではありません。ただ、生母の賈貴人とは従姉妹どうしだったため、その関係は良好でした。馬皇后はかの馬援の娘でしたね。彼女は父の薫陶を受けたのか、事実上皇帝の権力を振るえる立場となっても身を慎みました。加えて、彼女は馬一族が高位高官に取り立てられることを拒否しました。外戚が最大の権力を持つのは、霍光や王莽を見ても明らかなように皇帝が死んで幼い新皇帝が即位した時です。そして、権力を壟断することは、しばしば一族を不幸に導きました。霍光は皇帝に尽くしたにも関わらず、その死後には一族が滅ぼされたところを見ても明らかです。

 控えめな馬皇后に補佐される章帝は、若くして寛容、儒学を好み、父の明帝から才器があると認められていました。

 即位すると大赦が行われ、人事を刷新します。そして、対匈奴体制を固めました。即ち、征西将軍耿秉を酒泉に駐屯させ、酒泉太守段彭を遣わして戊己校尉耿恭をその補助とさせました。

 同年、焉耆(えんぎ;カラシャール)は、後漢が喪に服していると見るや、兵を発して西域を攻撃し、西域都護の陳睦を殺して天山南道の連絡は切断してしまいました。班超は西域に孤立することになります。


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