2020年04月11日

後漢 恤民政策の継続 明帝は光武帝の恤民政策を継続、絹(罰金)を払うことで罪を贖い、定住することを許す 廃太子劉彊の死

 少々先走りしましたね。明帝の即位直後に戻りましょう。

 明帝は即位すると、逃亡者で斬首以下の刑の者に対して絹を収めることで罪を帳消しにする、との詔を出します。同時に官吏選抜の不正や弱い者にばかり厳しい刑罰を課すことを非難していますので、明帝は父光武帝の恤民路線を引き継いだことがわかりますね。

 即位翌年の58年、光武帝と郭氏の間の長男で、郭氏が皇太后を廃された後に自ら願い出て太子を降りた劉彊が死去します。

 劉秀は劉彊を東海王に封じて広大な土地を与え、特別扱いしていました。劉彊はそれすら返上を願い出ています。その願いは父により却下され、壮麗な宮殿に暮らしました。その後も封禅の儀に同行することに見られるように、父から目をかけられていました。

 ところが、父が死ぬとその後を追うように病に冒され、明帝が医師を派遣したのも虚しく世を去ったのでした。享年34という若すぎる人生でした。

 明帝は劉彊に恭王の諡を送り、特別の礼で葬りました。なお、東海王の地位は子孫代々受け継がれ、後漢末の劉虞まで受け継がれることになります。

 皇帝が立てば、皇后も冊立されます。明帝が選んだのは、功臣馬援の娘でした。年ははっきりせず、永平年間(58〜75年)の初め頃とされていますが、恐らくは即位して間もないころのことでしょう。

64年には母の陰皇太后を世を去ります。明帝は母に光烈皇后の諱を贈り、葬りました。光烈という諱は、もちろん光武帝の諱に従ったものです。

 同年、北匈奴は和親を求めたのですが、後漢の側は引き続き匈奴への警戒は緩めず、逆に范友明を度遼将軍に任命して五原に駐屯させます。そして、各封国へ、死刑囚の罪を1等減じ、度遼将軍の軍営へ送るように命じます。妻子が同行を望むのであれば、戸籍を移すことも認めました。ただし、死刑囚の中でも大逆に当たる者は宮刑とされています。


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2020年04月12日

後漢 仏教伝来 中国に仏教が伝来した年代は不明だが、歴史書にはっきり証拠が見えるのは明帝の弟の楚王劉英の事例から

 また、同時期に皆既日食が起こったことを受け、「朕は徳も無いのに大業を継承し、下は人の恨みを残し、上は天文を動かしてしまっている。日食の変事は災の最も大きなものと春秋の図讖にあるとおりである。その咎は朕1人にある。吏たちは職務に励み、上申すべきことがあればためらわずに行うように」との詔を出しました。

 詔に応じて多くの上申があり、明帝はそれを深く受け止めたとのことです。この逸話に見られる通り、明帝もまた絶対的な権力を持つ皇帝としては破格に良い皇帝だったこと、そして父の光武帝劉秀と同様に図讖を重要視したことが分かりますね。

 65年、明帝は死罪とされた者は絹帛を納めればこれを許すとの法令を発布します。

 楚王劉英は法令を受け、自分は楚王として多くの過ちを犯してきたので、「大恩に感謝し、絹帛を奉り罪を償なおうと思います」と上奏します。

 劉英は劉秀と許氏との間の子で、明帝にとっては異母兄に当たります。許氏は劉秀の寵愛を受けていなかったため、王子たちのなかで与えられた封地は最も貧しく、狭かったそうです。若い頃は遊侠と親しみましたが、年をとってからはただ、明帝は自分が皇太子だった時から劉英と親しかったので、明帝が即位すると何度も賞賜を授けられました。

 この時、明帝が劉英に下した詔に、「楚王は黄老の深遠な文章を諳んじ、浮屠の祭を尊び、3ヶ月に渡って潔斎して神と誓いを行っているのだから、何を疑うことがあろうか。何か悔いていることがあるだけであろう。納めたものは返却するので、信者や斎戒のために使うがよい」とあります。

 注目すべきは「浮屠」、つまりブッダなる言葉が見えることです。

 中国への仏教伝来は、67年に明帝がインドから僧を招聘したことに始まり、翌68年に中国最初の仏寺である白馬寺が建設された、と魏書釈老志は伝えます。しかし、これは2世紀ごろに作られた、架空のものとの指摘があります。他にも、秦の始皇帝、前漢の武帝時代という説もありますが、それを明示する史料は存在しません。史料的な裏付けという点では、この後漢書の記事が最初のものです。


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2020年04月13日

後漢 楚王劉英の死 南北匈奴の分裂 70年、楚王劉英は反乱を起こそうとして露見、丹陽に移されるが、自害して果てる

 もちろん、劉英が中国最初の仏教信奉者であるはずがないので、この67年までには仏教がそれなりの支持を集めていたことは分かりますね。
同じ65年、明帝は北匈奴へ使者を送ります。

 匈奴は南北に分裂し、南匈奴が後漢と和親を結んでいたことは記しましたね。北匈奴は不安になり、後漢との和親を求めましたが認められませんでした。こうした経緯から、北匈奴は後漢に侵入しようとし、後漢は南匈奴の力も借りて北匈奴と対抗していました。そのような中、北匈奴がまた和親を求めてきたため、後漢としては北匈奴の侵入を防ごうと要求に応えることにしたのです。

 ところが、それを知った南匈奴は、後漢が北匈奴と結んで自分たちを攻撃しようとしていると勘ぐり、北匈奴と結ぼうとします。後漢は慌てて南北匈奴の交通を遮断して南匈奴との関係を深めましたが、北匈奴の侵入は続くことになります。

 67年、皇族や高官の子弟ために儒学を学ぶための学校を作ります。当然、この措置は登用に当たって儒学が重要視されることを示したことに他なりませんから、後漢においても儒教が定着していくことになります。

 70年、楚王劉英は反乱を起こそうとして露見します。

 劉英は方術の士を近づけ、金の亀と玉の鶴を作り、文字を彫って符瑞としたのです。後漢も引き続き讖緯が尊ばれたことは記しましたね。それは同時に、讖緯をでっち上げることは天の権威を利用して社会を動かそうとする大罪でもあるということです。劉英の行動は密告により、明らかにされたのでした。

 調査にあたった役人は、劉英が悪賢く狡い連中を集め、讖緯を捏造し、大逆不道であるから誅殺すべきであると上奏しました。明帝は過酷な処置を望まず、結局、劉英は楚王こそ廃されたものの、丹陽にうつして化粧料の名目で500戸を与えられました。更に、奴婢や工匠、楽団なども付け、幌車に乗って狩に出かけられるように配慮もしています。王子や公主は国を没収されることはなく、劉英の母の許氏は印綬を帰すことも求められず、楚の宮殿に住むことが許されました。

 しかし、翌年に劉英は丹陽で自殺してしまいます。こうして国は除かれました。


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2020年04月14日

後漢 楚王劉英の後始末 楚王の謀反に関与した者たちは次々と検挙される 処理に送られたのは有能さを知られていた袁安

 劉英やその一族への処遇は大甘だったわけですが、讖緯偽造事件に関与した者には厳しい処置が待っていました。親戚であれ、諸公であれ、官吏であれ、許されることはなかったのです。数千人が検挙され、死刑または流罪となった者が千人余りにもなった、と伝えられます。擁護した者まで罪に問われたというのですから、尋常ではありません。

 讖緯は天の意を示すものとされていたわけですから、それだけ捏造事件は重大な犯罪と見られたのでしょう。

 楚郡に送られたのは、袁安という人物です。

 袁安の祖父は前漢末に太子の舍人となり、後漢建国後は県令になった袁良という人物ですが、他に目立って活躍した者はいません。また、袁安の父の名は伝わっていませんので、家自体も特に大きなものではなかったようです。袁安は県で官吏の任免や査定を行う功曹に任じられ、60年に孝廉に挙げられました。その後は県令を歴任し、公正な政治で高く評価されています。

 楚は法律が煩雑で治めにくい土地と見られていたので、有能な袁安が送られたのでした。袁安は楚郡に太守として赴任すると、役所に入るよりも前に監獄に赴き、再審理に取り掛かります。反乱に参加したというはっきりした証拠の無い者については無罪とするよう上申し、多くの者が無罪となって出獄しました。この処置が明帝の目に止まり、袁安は洛陽を含む首都周辺の地域を管轄する河南尹に抜擢されます。

 袁安は後に中央に戻り、最終的には3公の1つ、司空、更に司後漢は徒にまで昇進します。そして、その子孫からは何人も3公を輩出する名族となっていきます。後漢末の動乱にも、その子孫が大いに絡んでいく姿を見ることになります。

 73年2月、後漢は北匈奴に対して攻撃を仕掛けます。太僕の祭肜(さいゆう)が高闕より、奉車都尉の竇固が酒泉より、駙馬都尉の耿秉が居延より、騎都尉(光禄勲の属官)の来苗(らいびょう)が平城より出撃するという大掛かりな作戦でした。


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2020年04月15日

後漢 西域事情 新成立後の混乱を受けて西域は中国から離反し匈奴に組み込まれるも、後漢は成立直後には余裕がなく西域を放置していた

 祭肜、耿秉、来苗は功績が無いまま帰還したのですが、竇固は祁連山で呼衍王を破るという功績をあげます。

 竇固は竇融の甥でその後も昇進を重ねていくのですが、今見ておきたいのは、彼の遠征時の処置です。ただ、その前に西方事情を振り返っておきましょう。

 前漢の時代に、衛青、霍去病、張騫、李広利らの活躍で、西域諸国は漢に服属するようになっていました。新が前漢を簒奪すると、王莽の独りよがりな対応によって、西域諸国は離反しました。更に、東方で反乱が相次いで発生して新の力が急落すると、匈奴が西方に入り込みます。
漢に服属していた国々は、端的に言えば国力が弱いから庇護を求めていたわけです。弱体化した新に付き従う理由はありませんので、多くの国が匈奴に服属します。その中で、莎車国だけは匈奴に従いませんでした。

 匈奴は西域諸国が漢に服属していた間に匈奴へ貢献がなかった分まで取り立てようとしたため、西域諸国としては匈奴から離れたかったのですが、庇護してくれる国が無い以上は服属を続けるしかありませんでした。

 後漢が成立すると、莎車国王の賢は鄯善王の安と共に後漢に朝貢します。劉秀は莎車の王に西域都護の位を与えて懐柔していたのですが、敦煌太守の裴遵が「夷狄に大きな権限を与えるものではありません」と進言したことを受けて大将軍に格下げしてしまいます。それでもまた、後漢が軍事力をもって西域を保護していれば良かったかもしれませんが、国内を統一したばかりの後漢にはそのような余裕はなく、西域は放置されました。

 不満を抱いた莎車国は後漢から離反し、周辺の国を攻撃、攻撃された国々は匈奴と結んで莎車と対抗するようになりました。その後、于闐国が強力になり、莎車を滅ぼすと、周辺の13国を服属させるようになっていました。


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