2020年04月06日

後漢 封禅の儀 56年、前漢の武帝以来となる封禅の儀が行われる 秦の始皇帝同様に、新たな王朝を開いたことを天に報告する儀式だった

 劉恭を殺した劉鯉が世話になっていたのが、劉玄と郭氏の次男にあたる劉輔です。

 劉輔は右翊公に封じられましたが、母が廃位されるに当たって中山王に、次いで沛王になっていました。劉鯉はこの劉輔の賓客となっていたのですが、その立場でありながら、劉恭を殺害したのです。劉輔はすぐに釈放されましたが、郭氏が死ぬと同じようなことを防ぐため、王侯の賓客が逮捕され、数千人が命を落とすことになりました。

 賓客と言っても、彼らは要は無頼ですから、法律に従わないことが多々あったのです。この後、生き延びた者は法律に従うようになったと記されているので、相当好き勝手をしていたのでしょう。

 こうしたごたごたはありましたが、基本的には統一後は落ち着いた時代でした。西域経営を放棄していたこともあって国力は回復基調にありました。

 56年、劉秀は泰山で封禅の儀を執り行います。数年前から臣下から封禅の儀を勧められていた劉秀でしたが、まだそのときではないと拒否し続けていました。しかし、『河図会昌符(かとかいしょうふ)』なる図讖を読み、封禅の儀を行うことを決めます。

 56年3月、前漢の武帝以来の泰山封禅が行われました。新の王莽も実行しようと考えてたようですが、その前に王朝が己の命もろとも無くなってしまいましたから、実行できずに終わっています。

 この時の儀式は、武帝同様というよりもむしろ秦の始皇帝同様に、新しい王朝を開いたことを上天に報告するものでした。まず泰山の麓で天を祭る儀式が行われ、そして長子で皇太子を廃された劉彊や百官を連れた劉秀は泰山を登り、天に報告する文の刻まれた玉牒を納めました。

 なお、この玉牒とは、「玉で作られた厚さ5寸、長さ1尺3寸、広さ5寸の札書で、これを玉検という玉で作った蓋でおおい、黄金の糸で5重にしばり、その結び目を水銀と黄金とを混ぜた泥で封じ、皇帝みずから方1寸2分の玉璽で封印」(『秦漢帝国 (講談社学術文庫) - 西嶋 定生
』)という豪華なものです。

 玉牒を封じて下山すると、その3日後には梁父という土地で地の神を祭り、封禅の儀は完了しました。

秦漢帝国 (講談社学術文庫) - 西嶋 定生
秦漢帝国 (講談社学術文庫) - 西嶋 定生


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2020年04月07日

後漢 図讖とトラブル 桓譯から図讖に従うことを諌められた光武帝劉秀は激怒して桓譯を斬れと命じる

 翌月、劉秀は洛陽に帰ると、元号を建武中元元年と改めました。

 そして、洛陽に明堂、霊台、辟雍を建てました。更に翌年には后土を祭る方丘が作られました。これで、王莽によって完成された礼の施設が洛陽に揃ったことになります。

 霊台を作るに当たって、1つのトラブルがありました。

 封禅の儀が図讖によって決められたことに見られるように、劉秀は讖緯説を重んじました。この図讖を天下に宣布したことで、 国家が正しいと認める緯書を公開するという意味合いが与えられたのです。これから仕官しようとする人々にとって、讖緯説が学ぶべきものとなったのです。

 讖緯は広く信じられていたとは言え、その胡散臭さを感じていた者もいます。給事中の桓譯は文書で劉秀を諌めます。劉秀はいたく不機嫌になりましたが、それでも霊台を建てる際に桓譯へ「図讖で決めようと思うが、そなたはどう思う」と尋ねます。桓譯は暫く黙った後、 「臣は図讖は読みませぬ」と答えました。

 劉秀は重ねて「なぜ図讖を読まぬのか」と聞くと、桓譯は「図讖は正しいものではありません」と直言しました。劉秀は激怒します。そして、「桓譯は聖人を非難し、法を無視している。斬れ」と命じました。桓譯は流血するまで叩頭することで許されましたが、中央から出されて六安に向かう途中、病のために世を去りました。

 私は何も、桀王や紂王のような暗君を紹介しようとしているのではありません。中国史上、最もまともな類の皇帝の事績を記しているだけです。その、まともな皇帝ですらこうした振る舞いをするのですから、君主制の限界を感じずにはいられません。

 漢代において、正月の朝会では特別な儀式である朝賀が開かれていました。朝会儀礼は臣下が貢納物を捧げる朝儀、皇帝から賜与と饗宴が与えられる会儀に分れます。この特別な場には、臣下だけではなく外国の使者も参加します。

 57年正月には、例年とは異なる外国からの使者がやってきていました。海の彼方の奴なる国からの外交使節がはるばる海を超えてやってきたのです。


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2020年04月08日

後漢 倭からの使者 光武帝劉秀の死の直前、倭の奴国の使者が奉献する 後漢書に記された倭の習俗について

 遥か異国から朝貢にやってくるということは(少なくとも当時の人々には)皇帝の徳が高いことを意味しますから、光武帝紀にもしっかり「東夷倭奴國王遣使奉献(東の夷である倭の奴国の使者が奉献した)」と記されています。

 倭については、三国志魏志東夷伝倭人の条(広く魏志倭人伝として知られるもの)が有名ですが、この後漢時代に朝貢があったことから、後漢書にも記録が残ります。

 ただ、後漢書は既に述べた通り、三国志よりも成立が後です。そのため書き出しは三国志の記述をなぞっており、新味はありません。ですので、朝貢した部分の記述のみ、『魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝』から引用しておきましょう。

 建武中元2年(光武帝、57)、倭の奴国が貢を奉じて朝賀した。使人はみずから大夫と称した。倭国の極南界である。光武帝(後漢第1代、25ー57年在位)は印綬(金印紫綬、滋賀島発見の金印「漢委奴国王」であろう)を賜うた。 安帝(後漢第6代、107ー125在位)の永初元年(107)、倭の国王帥升(師升、倭面土ヤマト説、九州イト説、委面説など)らが、生口160人を献じ、請見(面会を求める)を願うた。 桓(後漢第11代桓帝、157ー67年在位)・霊(同12代霊帝、68ー88在位)の間、倭国が大いに乱れ、かわるがわるたがいに攻伐し、暦年、主がいなかった。1女子がおり、名を卑弥呼といった。年が長じても嫁にゆかず、鬼神の道につかえ、よく妖をもって衆を惑わした。そこで、共に立てて王とした。侍婢は千人。顔を見るような者も少ない。ただ男子1人がおり、飲食を給し、辞語を伝え、居処・宮室・桜観(楼閣)・城柵など、みな兵器をもって守衛し、法俗は厳峻である。(


 この一節に見られるのが、かの有名な金印ですね。その真偽についても実に面白い論争が繰り広げられています。遥か後、日本古代史に至った時に紹介しようと思います。


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2020年04月09日

後漢 劉秀の死 倭の使者を迎えた翌月に劉秀は死去し、皇太子が即位する(明帝)

 さて、倭の使者を謁見した翌月の2月15日、光武帝は死去しました。その遺詔には、「朕は民に益を与えられなかったので、葬儀は文帝の時と同じように倹約を旨とするように。刺史を始めとする高官は持ち場を離れてはならない。部下を遣わして哀悼の辞を捧げてもならない」と命じました。

 劉秀はたまたま生きた時代に戦乱が起こり、その中で思いがけずに皇帝にまで至ったわけですが、軍事を好まず、戦乱で疲弊した天下が安定することを願っていました。隴西と蜀を滅ぼした後は軍旅を言わず、皇太子から戦争について聞かれた劉秀は「お前の及ぶことではない」とけんもほろろでした。怪しげな讖緯を信じたり、讒言を真に受けたりしたことはありますが、常識的な範囲の欠点であり、歴代の皇帝の中でも特筆すべき優れた皇帝であると思います。

 『資治通鑑』を著した司馬光は「光武帝が即位したころは、群雄がきそい合い、国中が沸きかえっていて、堅塁を破り強敵をうち倒す武勇の人や、謀略や弁舌の才智のある人たちが、世間ではもてはやされていたが、帝だけは誠実な臣を採用し順良な役人を表彰し、人物を民間から抜擢して諸大臣の上位に置いた。漢の旧制を復興し、長く帝位を伝えたのも、もっともなことであり、務めるべき第一のことを知ってその根本を得たからにほかならない」(『中国古典文学大系〈14巻〉資治通鑑選 (1970年)』)と讃えています。

 直ちに皇太子の劉荘が即位しました。これが明帝です。

 明帝は即位時30歳で、後漢書によれば下膨れでした。ええと、それをわざわざ記録する意義がさっぱり分からないのですが、とにかく歴史書に残すだけの価値があるほど下膨れだったのでしょう。

 10歳で『春秋』に通じ、父劉秀はこれを喜んでいます。皇太子に立てられた後は『尚書』も学んだということなので、学を積んだ成人が即位するという皇朝にとってこれ以上無い条件の人物が即位したことになります。また、春秋と尚書を学んだことから、儒学教育が一般的だったことも分かりますね。


中国古典文学大系〈14巻〉資治通鑑選 (1970年)
中国古典文学大系〈14巻〉資治通鑑選 (1970年)


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2020年04月10日

後漢 明帝即位 明帝即位の朝廷では建国の功臣の1人、竇融の一族が多くの力を握っていたため、明帝は竇一族の力を削ぐ

 さて、明帝即位直後の朝廷では、なんといっても竇一族が大きな力を持っていました。河西の人びとを率いて劉秀に降ったことは西方への進出を有利にしたこともあり、竇融のみならず一族が重用されました。

 竇融はまだ存命中で、竇一族の多くの者が重く用いられていました。そこに加えて竇融の従兄弟の子竇林が護羌校尉に任じられます。この時、竇融の長男の竇穆、更に竇穆の子の竇勲、竇友の子の竇固がそれぞれ公主を娶っていたため、竇氏は「1公(大司空)、両侯(安豊侯、顕親侯)、3公主、4二千石(衛尉、城門校尉、護羌校尉、中郎将)」を得たと言われました。

 強力な力を持つ臣下がいることは、やる気のある皇帝には邪魔になります。少々歴史の流れを措いて、竇穆らの末路を見てしまいましょう。

 59年、竇林が収賄と上奏に誤りがあったことを嘘で糊塗しようとしたことで誅殺されます。明帝はこのことで竇融を何度も責めたので、竇融は辞職を願い出ました。明帝は衛尉の印綬返上を認め、ウシと酒を賜りました。重鎮を体よく追い払ったと見るのが正しいように思います。

 竇一族の繁栄をもたらした竇融は恭謙で、驕った素振りは全く見せませんでした。今回の衛尉辞職以前にも、劉秀の時代からしばしば官位を返上しようとしたほどでしたが、一族はそのような者ばかりではありません。竇穆が軽薄な連中と親しく付き合って法律を犯すなど、やりたい放題でした。

 特に、62年に竇穆が娘を六安侯劉?(りゅうく)に嫁がせるため、陰太后の命令と偽って妻を去らせたことが露見したことから、竇穆は罷免され、竇勲こそ公主を娶っていたことで洛陽に残りましたが、他の一族の者もまた故郷に帰ることを求められました。

 竇穆は最終的に、役人に賄賂を贈ったことがわかり、親子ともども獄死しました。竇勲もまた、洛陽の獄で死去しています。

 こうして竇一族の多くの者は失脚していくのですが、驕ることなく政務に取り組む者は疎まれることなく、引き続き重要な役割を果たしていきます。


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