2020年04月01日

後漢 反乱相次ぐ ベトナムの反乱鎮圧へ伏波将軍馬援が派遣される 蜀ではかつて岑彭の部下だった史歆が背く

 反乱を鎮圧したばかりの馬援でしたが、劉秀は彼を伏波将軍とし、副将に劉隆を充て、楼船将軍段志らを率いさせて交阯の徴姉妹に向けて遠征させます。

 伏波将軍は雑号将軍で、車騎将軍や驃騎将軍のような高い将軍位というわけではありません。過去にも伏波将軍号が使われたことはありますが、もっぱらこの馬援で知られています。

 42年2月、蜀で史歆が背きます。その反乱の原因となったのは、呉漢が公孫述を滅ぼした際に成都で兵士たちが暴れたため、万を数える人々が殺されたという暴虐です。蜀の人々はその恨みを忘れていませんでした。

 史歆はかつて岑彭の下にいて才能を見いだされた人物です。詳細は分かりませんが、恐らくは岑彭に従って蜀遠征に赴き、岑彭が暗殺に斃れた後は呉漢または臧宮の指揮下に置かれて成都攻略に参加したと思われます。想像をたくましくすれば、史?は呉漢の下に置かれ、成都攻略後に呉漢の軍が乱暴狼藉を働くのを見て、反感を抱いたのではないでしょうか。

 反乱に対して、再び呉漢が派遣されます。その指揮下には、武威将軍劉尚、太中大夫臧宮が付けられました。

 馬援の遠征はまだ続いていましたから、後漢は蜀と交阯での二正面作戦を行っていることになります。それだけ、漢の国力は両勢力と比べて圧倒的だったのです。

 遠征と並行して、人心掌握も進めます。4月には辺境では穀物50斛(1斛は30kg強)を盗んだら死刑になることから、酷吏が多くの死刑を科す理由になっているとして、この法律を廃止させ、内地に合わせるように指示しました。思うに、地方で反乱が起こったことに対して、討伐の軍を送るという鞭だけでは押さえられないと思っていたのでしょう。

 7月、呉漢は成都を陥落させ、史?を斬ります。また、戦後処理として反乱に参加した主要な者200名余りが処刑されましたが、それ以外の者は荊州への流罪で済まされています。

 一方、馬援は同年春に交阯にたどり着きます。前漢の項で記した通り、南越は山岳地帯に谷が複雑に入り組んだ土地で、大軍を動かすのはさぞ苦労があったことかと思われます。


面白いと思ったら押して下さると嬉しゅうございます^^

人気ブログランキングへ
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 後漢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年04月02日

後漢 反乱鎮圧 徴側、徴弐姉妹は斬られても反乱は続き、馬援は3年がかりで反乱を鎮圧すると治水などインフラ整備まで実行し、帰還する

 また、軍には疫病が蔓延し、楼船将軍段志が病死するなど苦しみます。それでも進軍を続けてついに反乱軍を捕捉すると、戦って勝利を得、数万の人々の降伏を受けましたが、徴側、徴弐の姉妹は軍を分散させて逃げてしまいます。

 翌43年、皇太子劉彊が廃されます。彼は郭皇后との間の子で、母親が皇后を廃されたことから大変に不安定な立場に置かれていました。それを自覚していた劉彊はかねてから皇太子を辞めたいと願っていましたので、劉秀は喜んでか渋々かは分かりませんが、その願いを叶えたことになります。

 次の皇太子となったのは、寵愛する陰麗華との間に生まれた劉陽です。この時、名が「陽」のままだと諱の風習で将来大変になることから、名を「荘」に改めています。

 同年にはまたもや怪しげな宗教団体を率いる傅鎮が反乱を起こし、現在の河南省にある原武を占領します。こちらには臧宮が派遣され、4月には拠点を陥落させて傅鎮を斬りました。臧宮も、蜀に河南にと忙しいですね。

 同じく4月、馬援はベトナム深くまで追撃して、最終的に姉妹を捕らえ、誅殺しました。その首は洛陽へ送られたのですが、これで反乱鎮圧とはなりませんでした。まだ反乱の残党が各地に残っていたのです。引き続き、馬援は南方での作戦を継続するしかありませんでした。その戦力は楼船2000余艘、兵士2万人余ということで、かなりの大軍ですから、反乱はそれなりの規模で続いたことになります。

 馬援は作戦を継続し、鎮圧に成功しました。一連の鎮圧作戦により、5000人が捕斬されたとのことです。

 反乱を鎮圧すると、馬援は優れた行政官としての腕を発揮します。毀たれた城郭を修復し、用水路をほって灌漑を行って民衆の生活を豊かにしました。越の法律のうち、後漢の法律と食い違いのある条文10余りを列記して上奏し、越の人々と旧来の制度を確認して、それが保たれるように約束しました。越の人々は馬援を讃えたというのもわかります。

 馬援が帰国したのは、44年の秋のことでした。41年に遠征に出ていますので、3年ほども戦い続けたことになります。



面白いと思ったら押して下さると嬉しゅうございます^^

人気ブログランキングへ
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 後漢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年04月03日

後漢 馬援の死1 武陵蛮の反乱に建国の功臣の1人である劉尚が派遣されるが敗死、馬援は死に場所を求めてその後任となることを望む

 47年には匈奴との関係を大きく変える出来事が起こります。前漢に降っていた呼韓邪単于の孫で、匈奴の南方と烏桓を領していた日逐王比が単于になれないことを不満に抱いて密かに後漢と好を通じたのです。

 翌年の48年には、日逐王比は祖父と同じ称号、呼韓邪単于と称して後漢に来降しました。こうして匈奴の内部には、南北に分かれて相争う下地ができたのでした。

 同じ48年には武陵の異民族である南郡蛮が背いたため、武威将軍の劉尚が派遣されます。劉尚は来歙とともに隗囂対応に奔走したり、公孫述を滅ぼした蜀遠征にも参加しています。史歆討伐にも派遣されたことは記したとおりです。劉尚は各地で勝利を上げた歴戦の将軍ではありましたが、この南郡蛮の反乱の際には深入りしたために軍は壊滅的な被害を受け、劉尚もまた戦死してしまいます。

 馬援はその後任となることを希望しましたが、劉秀は馬援の62歳という年齢を考え、許可しませんでした。馬援は「臣はまだ鎧をつけたまま乗馬できます」と訴えて、武装して馬上から睥睨したので、劉秀は笑って「矍鑠たるご老人だ」と言い、出陣を許しました。

 出陣にあたって、馬援は友人に「私は厚く遇されてきたが、もう寿命も近く、国のために死ぬことができないことを日々恐れている。今、出陣を許されて安心している。良家の子弟に横やりを入れられないことが望みだ」と言い残しています。彼は死に場所を戦場と決めていたのですね。

 翌49年春、遠征軍は臨郷に至ります。敵は城から出撃して野戦を挑みましたが、百戦錬磨の馬援はこれを邯鄲に一蹴します。反乱軍は散開して竹林へ逃げ込みました。

 馬援たちが追撃して竹林に入ると、道が二手に分かれていました。片方は距離は近いのですが谷が深く、別の道は高低差はなく進軍しやすいのですが遠回りになります。

 名将耿弇の弟、耿舒は遠回りでも進軍しやすいほうが良いだろうと進言しますが、馬援は遠回りして食料を消尽してしまうより、むしろ急進して備えのない敵の喉笛に食らいつけば敵は退くだろうとし、上奏を受けた劉秀もまた耿舒の提案を却下しました。


posted by 仲井 智史 at 13:00| Comment(0) | 後漢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年04月04日

後漢 馬援の死2 武陵蛮は険阻な地に立て籠もって抗戦し、馬援をはじめ漢軍は暑熱に苦しみ、遂に陣没する

 しかし、馬援たちが進んでみると、反乱軍は高所に陣取って隘路を塞ぎ、大軍の接近を許しませんでした。水路を遡ろうにも、水の流れがあまりに速すぎてとても実行できません。

 加えて、厳しい暑さと疫病が襲いかかります。馬援もまた病に冒され、崖に穴を穿ってその中で暑熱を避けながら療養するしかありませんでした。

 それでも馬援は、敵が鬨の声を上げると足を引きずりながらその様子を伺いに出ていきました。

 耿舒は兄の耿弇に、「先に自分は食料の運搬は難しくなったとしても、ウマは動かしやすいので遠回りして機動力で賊を討つべきと上申しましたが、兵士たちはまず敵のものを奪おうと急峻な道を進みました。難路に当たって進むことができず、多くの者が気が塞いだまま死につつあり、痛惜すべき状況です。伏波将軍は西域の隊商のように休み休み進み、利を失いました。私の言った通りとなったのです」と書簡を送りました。

 耿弇は劉秀に弟からの書簡を奉りました。劉秀は婿で虎賁中郎将の梁松を送り、馬援を問責させ、さらに軍を監督させます。

 しかし、この人事は失敗でした。かつて、梁松が病床の馬援を見舞った際、梁松はベッドの下で拝したのですが、馬援はそれに答えなかった、ということがありました。馬援としては梁松の父と友人だったことから、特別扱いをしないようにしたのですが、梁松はこれを恨んでいたのです。

 馬援は病から回復することなく、遂に陣没します。

 梁松はもっけの幸いとばかりに、敗戦の責任を問うて馬援を罪に陥れました。劉秀は大いに怒り、馬援に与えていた新息侯の印綬まで没収しました。

 先に馬援が攻撃方針について上書して判断を求めていたことを考えると、劉秀の判断こそ誤っているように私は思います。

 劉秀の怒りに火を注いだのが、馬援の死後に彼を謗る上書が出てきたことです。馬援の妻子は後難を恐れて棺を旧来の墓に葬ることすらできず、賓客や親しかった人々ですら弔問に訪れませんでした。まともに埋葬ができるようになったのは、甥の馬厳が6度も哀切な上書を奉ってからのことでした。


面白いと思ったら押して下さると嬉しゅうございます^^

人気ブログランキングへ
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 後漢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年04月05日

後漢 匈奴分裂 蝗害や旱害に苦しんだ匈奴は分裂、南匈奴は後漢と結んで北匈奴と対抗し、北匈奴もまた漢との和親を図るが拒否される

 馬援の末子の馬客卿は馬援の後を追うようにして早くに亡くなりましたが、長男の馬廖は羽林の左騎を率いる羽林左監、虎賁中郎将に任じられ、後には衛尉に出世します。一族はその後も故郷の右扶風に残り、後漢末にこの地で猛将を生むことになります。

 さて、51年、大司徒、大司空、大司馬の三公が、司徒、司空、太尉と名称が変更されます。いよいよ、我らが三国時代で見慣れた官位が現れてきましたね。

 もっとも、政治の実務は前漢以来尚書に移っていたため、三公は録尚書事として尚書を兼ねるようになっていきます。3公というと、後漢末の混乱の際に4代に渡って3公を輩出したことをもって袁紹、袁術が中心的な役割を果たすことになるわけですが、3公は名誉職になっていたのですね。

 同年、南北に分裂して孤立化した北匈奴は、逆に後漢と結んで南匈奴を圧迫しようと後漢へ使者を送ります。

 この背景として、北匈奴では日照りや蝗害によって飢饉が発生、民の3分の2が死ぬという危機が発生していたことがあります。朝廷では受けるべきか受けざるべきかで紛糾しましたが、皇太子の劉荘が「北匈奴と和親すれば、南匈奴は背くかもしれません」と意見を述べたことから、沙汰止みとなりました。

 北匈奴はそれでも和親の望みを捨てず、翌年には再び使者を送ってきます。匈奴の弱体化を見た臧宮や馬武は、この機に北匈奴を討つべしと主張しましが、劉秀は許さず、班彪の意見を容れて和親はしないものの、絹帛を贈って懐柔するに留めました。

 52年、かつて皇后だった郭氏が世を去ります。これを機会に、王族やその賓客から多くの者が誅殺される出来事が起こります。

 ことの始まりは、更始帝劉玄の子の劉鯉が、赤眉に擁立されていた劉盆子の兄の劉恭を殺害したことがきっかけです。劉玄は赤眉に降伏しましたが、赤眉は民衆の心が自分たちよりも劉玄に傾いたのを見て、不安になって劉玄を殺してしまったのでしたね。ということは、劉鯉にとって劉盆子や劉恭は親の仇になるわけです。


面白いと思ったら押して下さると嬉しゅうございます^^

人気ブログランキングへ
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 後漢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
面白いと思ったら押して下さると嬉しゅうございます^^
人気ブログランキングへブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村