2020年03月31日

後漢 宗教団体の反乱 神を自称し多くの信者を集めた維が処刑され、信者たちは反乱を起こす

 また、同じ40年には5銖銭が復活されます。馬援は隴西にいた頃、3度も5銖銭を鋳造すべきだと上奏していましたが、反対にあって尽く却下されていました。この年、中央に戻ったことを受け、反対論を踏まえた上で詳しい意見を奏上しました。これがようやく受け入れられ、5銖銭の鋳造が開始されます。王莽が貨幣政策を混乱させて以来、穀物や布帛が貨幣代わりとなっていましたが、ようやくまともな状態に戻ったのでした。

 41年7月、宗教団体の蜂起が起こります。巻という地で維なる者が神を自称し、数百の信者を集めたことから処刑されたのです。この基準で言えば、教祖が神を自称する新興宗教はみんな死刑です。光武帝劉秀はかなり寛大な君主というイメージがありますが、それでも現代から見れば厳しいこともしているのですね。

 弟子たちは納得せず、その中の李広が「維は神仙となったので不死である」と宣言し、それを信じた人々を率いて蜂起、皖城を占拠して皖侯の劉閔を殺害しました。

 まず謁者の張宗が数千の兵を授けられて派遣されましたが、敗れてしまいます。本腰を入れた漢は、馬援と段志に今度は数万の兵をつけて鎮圧に送り出されました。こうなっては数百の信者に指揮された反乱軍に勝ち目は有りません。9月には城は陥落して李広は斬られました。

 後漢の宗教団体といえば、五斗米道や太平道が有名ですが、もっと前に騒擾事件を起こしていた団体がいたのですね。

 反乱鎮圧に成功した翌月、皇后の郭氏が廃され、中山太后とされます。郭氏は河北の大豪族の生まれでしたね。その出自が影響してかどうか、郭氏はわがままな性格で劉秀に疎まれていました。

 代わって皇后となったのは、陰貴人こと陰麗華です。彼女には劉陽という息子(戸籍調査の際に官吏が不正を行っていることが明らかになるきっかけを作った王子でしたね)がいましたが、劉秀は皇后を廃しても皇太子の劉彊を廃することはしませんでした。ただ、皇太子の劉彊は母が廃されたことから廃立を願うことになります。

 家庭内の事情はここで切り上げておきましょう。


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posted by 仲井 智史 at 16:00| Comment(0) | 後漢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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