2020年03月30日

後漢 ベトナムの反乱 悪政に反発した越の人びとが徴側、懲弐姉妹を立てて反乱を起こす 後漢は反乱勢力の分断を図るも終息はしなかった

 40年、交阯の女性、徴側と徴弐の姉妹が反乱を起こし、城邑を有します。交阯は現在のベトナム北部で、前漢の初期に独立を保っていた南越のあった場所です。徴姉妹は現地の有力な軍の指導者の子として生まれました。彼女は交阯太守の蘇定が悪政を行っていたことから、徴税権を現地の有力者に戻すように訴えます。これに多くの者が賛同したのです。

 漢はこれを重大視したのではありますが、直ちに対応することはできませんでした。漢では戸籍調査の不正を糺そうとする劉秀の姿勢が地方での反乱再発ももたらしていたのです。

 先に獄死した太守が河南尹の張仍をはじめ10余人にも及んだと記した通り、調査が行われて困るのは豪族たちです。彼らと新代の反乱において中核を為していた悪少年たちが結びついて、反乱を起こしたのです。特に反乱が多かったのは青州、徐州、幽州、冀州です。この地域は、新に対する反乱が多数起こった地域と重なっています。

 彼らは地方の役人を殺害しますが、そこに新たなる権力を打ち立てようとはせず、中央から討伐軍が送られると逃げ、討伐軍が去ればまた集合して害をなしました。

 これでは埒が明かないと判断した劉秀は、反乱を起こす者たちの分裂を図ります。即ち、5人の賊が1人を斬った場合も無罪とし、他の反乱軍について訴えでた者の罪を問わないことにしたのです。また、地方の役人が反乱の発生を隠蔽しないよう、反乱の発生だけでは人事査定でマイナスにせず、鎮圧の成否のみを評定の対象としたのです。この案は成功を収め、多くの賊が解散し、また討伐されました。

 捕まった兵士については、首謀者は地方に流し、一般の者には土地と種籾を与えて定住させるという寛大なものでしたから、降る反乱兵たちも大勢いた事でしょう。

 同年には匈奴に逃げ込んでいた盧芳が降伏を申し出ます。劉秀は許し、盧芳を代王に封じました。



面白いと思ったら押して下さると嬉しゅうございます^^

人気ブログランキングへ
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 後漢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
面白いと思ったら押して下さると嬉しゅうございます^^
人気ブログランキングへブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村