2020年03月28日

『その犬の名を誰も知らない』 南極でタロ、ジロと共に生き、第3次越冬隊が南極に着く前に死んだ第3の犬の正体は?

 1958年2月24日、第1次越冬隊と第2次越冬隊を乗せた宗谷は、第2次越冬を断念し、南極海域から離脱を開始します。イヌたちを南極に残して。なぜイヌたちが取り残されることになったのか、その経緯を簡単に振り返ってみます。

 南極越冬計画が指導したのは、敗戦からまだ10年しか経っていない1955年のことで、日本にまだ科学研究に割く十分な資金などありませんでした。それでも、日本は国際的な極地研究に参加することを選び、1957年に昭和基地を設営、周辺の探査と科学研究を開始したのでした。全国で子どもたちがお小遣いを寄付するなど、国民の多くの支持を受けてのことでした。

 第1次越冬隊は、南極での移動手段として雪上車とイヌ橇を併用しました。イヌ橇は簡単な作りですから、故障しても簡単に補修できます。クレバスに落ちても、本体は軽いので人力とイヌ力で引き上げることが可能です。一方、雪上車が探査に赴いた先で故障してしまったら、越冬隊員の死に直結してしまうのです。

 国内での厳しい選抜をくぐり抜けたカラフト犬たちが越冬隊員とともに南極へ向かい、周辺地図の作成や未踏峰のボツンヌーテン登頂など多くの成果を成し遂げることに貢献を果たしました。

 越冬隊は1年交代です。年が変わり、人も交代すべく、第2次越冬隊が南極へ向かいます。ところが、折からの悪天候で宗谷は海氷を突破できません。スクリューも破損して推進力は落ち、アメリカのバートン・アイランド号に移動を委ねる状態に陥っていました。それでも何とか事業計画を続けようと、一時は隊員7名での越冬というギリギリの計画まで立てられていたのですが、それも虚しく、計画は断念されたのです。

 最後まで第2時越冬の可能性を残そうとしたため、第1次越冬隊が宗谷に引き上げて船上で引き継ぎを済ませてから第2次越冬隊が昭和基地に向かうこととなっていました。その際、イヌたちが放し飼いに近い状態になっていたのなら、イヌたちと全く馴染みのない第2次越冬隊がイヌたちを管理することはできません。そのため、イヌたちはしっかりと鎖に繋がれたまま、置き去りとされたのでした。

 1年後、第3次越冬隊が南極でタロとジロと再開したことは大きな驚きと喜びと共に報じられ、今でもタロとジロのことを知る方は多いでしょう。いえ、南極でイヌたちが果たした多大な役割ですらほとんど忘れ去られ、ただタロとジロが生き延びたことばかりが知られているのではないでしょうか。

 半ば神話化したタロとジロの生存ストーリーでは、2頭は兄弟犬で助け合って過酷な南極を生き抜いたと思われてきました。

 ところが、第8次越冬隊が帰国する直前に、もう1頭のイヌの遺体が昭和基地の近くで発見されたことで、そのストーリーは見直しが必要となってきたのです。まず間違いなくタロ、ジロと行動を共にしたそのイヌについて、第8次越冬隊も第9次越冬隊も、ほぼ全く記録を残していません。となると、第3のイヌがどのイヌなのかについて語ることができるのは、何と言ってもイヌ係としてイヌたちと行動を共にした方しかいないでしょう。

 第1次越冬隊では北村泰一隊員と菊池徹隊員がイヌ係でした。彼らはイヌ橇を率いてボツンヌーテン探索をはじめ多くの行動を共にしました。この2人のなかでも、イヌたちについて一番詳細に語ることができるのは北村隊員でしょう。なんとなれば、北村隊員は北海道での訓練からイヌと共にあり、第1次越冬隊が去る前にはイヌたちの引継書を作成し、不本意な第2次越冬放棄を悔いてイヌたちを葬るために第3次越冬隊に加わり、凍死したイヌたちを葬った人物ですから。また、菊池隊員は既に世を去っているので、現在では北村隊員はイヌについてしっかり語ることのできる随一の人物というだけではなく、唯一の人物となっています。

 本書は、ジャーナリストの嘉悦洋さんが第1次越冬隊でイヌ係だった北村隊員にインタビューしたことから生まれた、この第3のイヌの正体に迫る力作です。そしてまた、監修した北村隊員の慟哭の書でもあります。

 なぜ第3のイヌはタロやジロと行動を共にしたのでしょうか。また、彼らは何を食べて生き延びたのでしょうか。前者の問いは、何の物証もないことですから推測しかない難しさを抱えます。後者の問いも分からないことばかりです。

 食糧問題について、少なくとも、係留されたまま凍死したイヌたちの遺体はきれいなままで、共食い説は否定されます。また、昭和基地内の人間用の食料もイヌ用の食料も、食べられた形跡は有りませんでした。

 ではどうやって?

 その謎を解くためには、第1次越冬隊におけるイヌたちの行動や、性格にまで入り込んでいかなければなりません。そこで、本書ではまず第1次越冬隊のイヌ橇の行動を詳しく追いかけます。どのイヌがどのような行動をとったのか。どのような性格だったのか。第3のイヌの名前を知りたいだけなら、恐らくは迂遠にも思えるほど、イヌたちの生が描写されます。北村隊員は後書きでこう記しています。

 私がこの作品を監修するにあたって筆者に託したことは、ただ一つ。それは、南極で活躍した犬はタロとジロだけではない。すべての犬たちが頑張り、死んでいった。そのことを多くの人に知ってもらいたいということだ。第一次越冬中に命を落としたベックとテツ。自ら昭和基地に決別した誇り高き比布のクマ。残置されたまま餓死した七頭。行方不明のままとなった五頭。生き延びたタロとジロ。そして第三の犬。
 南極を駆け抜けた一八頭のすべてに平等に光を当てたい。それが私の気持ちである。


 その言葉通り、本書を読めば死んでいったイヌたちが「名もない可愛そうなイヌ」ではなく、「喜びや苦しみを感じた生きたイヌ」としてたち現れてきます。その分だけ、悲劇が胸を打つことにもなり、悲劇に向かって進む下りでは目から汗が流れ落ちる可能性があることは事前に申し上げておきます。

 上述した2つの問いに、北村隊員は答えを出します。その答えを記すことは致しませんが、両者の問いを1つの説得力有るストーリーとしてまとめていることだけは間違いないと断言しておきます。

 最後に、第1次越冬を成功させたイヌたちへ敬意を表するため、彼らの名前を記して、。

アカ 融和性に欠け、孤立しがちだった。係留されたまま死亡。
アンコ 大食漢の甘えん坊。行方不明。
紋別のクマ 風連のクマの兄弟。暴れん坊で喧嘩ばかりだったが、力強さを発揮した。係留されたまま死亡。
比布のクマ 巨体で力強い。カエル島からの帰途、基地に戻らずに南極大陸へ姿を消した。
風連のクマ タロ、ジロの父。行方不明。
クロ 撫でられるのが好きで、クークーと鳴いてねだった。係留されたまま死亡。
ゴロ アザラシの肉が大好きな、大食いのイヌ。一番のがんばり屋でもあった。係留されたまま死亡。
ジャック 臆病だった。鞭を見ただけでキャンキャン鳴いて逃げ回った。おとなしく扱いやすかったが、依頼心が強かった。行方不明。
シロ 若いが、南極で先導犬としての素質を開花させる。行方不明。
シロ子 生まれた子と共に第1次越冬隊と帰還。
ジロ タロと兄弟。タロと共に一年間生き抜いたが、後に南極で死亡。
タロ ジロと兄弟。南極での働きを終え、日本へ帰国し、北海道で死亡。
テツ 高齢で、ボツンヌーテンからの帰途に体調を崩す。越冬中に死亡。
デリー カラフト犬とシェパードのミックス。攻撃的で喧嘩っ早かったが、体力がなく、橇を引くとまっさきにダウンした。行方不明。
ペス おとなしく、餌を横取りされても怒らない。チームの潤滑油になった。係留されたまま死亡。
ベック ボツンヌーテンから仲間が帰ってきた夜に死亡。
ポチ 短毛種のカラフト犬。橇を引く際には猛烈な力を発揮した。係留されたまま死亡。
モク おとなしく、名前の通り黙々と橇を引いた。係留されたまま死亡。
リキ 優れた先導犬。一番の老犬で、リーダーシップがあった。行方不明。


その犬の名を誰も知らない (ShoPro Books) - 嘉悦 洋, 北村 泰一
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posted by 仲井 智史 at 13:00| Comment(0) | 後漢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

後漢 厳罰化論議2 法律で禁止事項を増やしても社会は良くならないとの上書を受け、厳罰化は見送られる 統一後の人口統計について

 厳罰化案を聞いた杜林は、「人の心をくじくならば、節義の心が失われるものです。法律で禁止することを増やしても、法律から逃れる行動が増えるに過ぎません。孔子の説く『免れて恥なし』というものです。漢が成立すると過去の失敗や成功から法律の過剰なものを無くして足りないものを補い、苛政を除いて粗い網をつくりました。それ故、社会は安定して人々は寛容な政治になついたのです。法を厳しくしてもつまらぬ理由で死刑となる者が増えるばかりで、法律をもっても止めることはできず、皆が法を逃れて相手を貶めるばかりになるでしょう。法を変えるべきではありません」と上書し、劉秀はこの提言に従って法律を変えることはありませんでした。

 もっとも、劉秀は一貫して恤民政策を続けていますから、杜林の言葉が最も受け入れやすかったということはあるのでしょう。

 39年、戸籍調査が行われます。古代における戸籍調査目的を『歴史と統計学 ――人・時代・思想 - 竹内 啓』は「戸籍を作って人民を数え上げることは、君主が直接人民を支配することの表れでもあり、手段でもあったのである」と記します。続いて、中国の場合についてこう述べています。

 中国の人口史料を貫く顕著な事実は、それが常に「戸」と「口」という2つの単位で記述されていること、そして「口」より「戸」が重視されていることである。このことは中国の王朝が人身把握を支配の原理としており、しかも、それを「戸」という小家族単位で行っているということを意味している(日本では古代の班田制が崩壊した後、支配の対象は「土地」であり「人」ではなくなった。そのため戸籍制度がなくなり、18世紀初頭に徳川吉宗が人口調査を始めるまで、人口を直接表現する基礎史料はなかった。16世紀末に行われた「太閤検地」は全国の土地<農地>を詳細に調べたが、人の数を数えることは目的としていない)。


 人口統計がとられたことは、税金の徴収のためだったのですね。これは他の地域も同じで、例えばローマは徴税対象のローマ市民の統計のみ取得していたことが知られています(ナザレのイエスの誕生神話に見える人口調査のために本籍地に帰る途中で生まれたという神話が作り話であることが分かりますね)。全土の人口を調査するような、時間も金も必要なことは、国にとってもそれだけの理由があるものなのです。


歴史と統計学 ――人・時代・思想 - 竹内 啓
歴史と統計学 ――人・時代・思想 - 竹内 啓


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posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 後漢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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