2020年03月26日

後漢 功臣粛清のなかった後漢 功臣には広大な土地も顕官も与えないことで、国内の安定化と功臣粛清を防いだ劉秀

 どのような選び方をしても不平等に感じる人がでるのは避けられないにしても、来歙がいないのは少々腑に落ちないものがありますね。馬援は建国時の英雄というわけではないでしょうし、明帝としては彼が舅に当たるため入れるのを躊躇したということもあるのでしょう。実際、なぜ伏波将軍馬援が入っていないのかという質問はあり、明帝は笑って答えなかった、ということです。

 特記事項の最初に記した封爵を見ても、どこにも王に封じられた者がいませんね。これが前漢成立時との極めて大きな違いです。功臣たちは最大でも賈復が6県に封じられたに過ぎません。河北以来常に劉秀に従い各地を転戦したケ禹ですら、4県です。また、朝廷でも顕官には任じられていません。

 彼らが広大な土地を賜らなかったり、朝廷で強大な権力を握ることがなかったことは、後漢成立後の功臣粛清がなかったことに結びつきます。前漢では王に封じられた者は広大な土地と強力な権力を、王とはされなかった者でも封じられた土地から得られる多くの資金も背景に朝廷で大きな力を持ちました。韓信、英布、彭越、韓王信たちが粛清されていき、蕭何ですら一度は誅殺されかかったのは、皇帝すら脅かしかねない権力を持っていたからに他なりません。

 劉秀の論功行賞は、部下の粛清をもたらすことのない、優れたものだったと言えるでしょう。

 38年、臣下たちが「昔は肉刑が厳しかったため、人々は法律を恐れていました。ところが、今は法律が軽いため、悪人が跡を絶ちません。禁令を増やしてその源を断つべきです」と上書します。よくある厳罰主義ですね。

 その中心に居たのは、かつて新末の混乱の際に竇融を支えた梁統です。その論の中には、「人を殺した者ですら死刑を減じられたことで殺人が増えた」とあります。確かに、殺人に対して死刑は私は妥当であるとは思うのではありますが、死刑にならないなら簡単に人を殺す者がでるというのはまた誤りであると思います。


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posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 後漢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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