2020年03月19日

後漢 蜀攻撃開始 漢軍は数手に分かれて蜀へ侵入、公孫述は暗殺作戦を実行して岑彭と来歙を刺殺させるが、漢軍の勢いは止まらない

 同じく37年、遂に蜀への総攻撃が開始されます。劉秀は自ら軍を率いて長安に入ると、岑彭、来歙、臧宮らを蜀に発進させました。彼らは天険を冒して蜀へ向かいます。また、同年12月には呉漢が船で長江を遡って蜀を目指しました。

 岑彭の軍は規律正しく、略奪は許しませんでした。そのため、その軍の進路に住む人々は酒や牛を奉じて迎えましたが、岑彭は「我々は蜀の人々が長らく苦しめられていたことを哀れに思い、罪ある者を除きに来たのである」と言って受け取ることはありませんでした。そのため、各地で降伏する者が続出します。

 慰撫だけが岑彭の武器ではありません。公孫述の送った防衛軍と遭遇すると、臧宮らに命じて蜀軍を防がせている間に、軍を割いて江州に返り、川を遡って敵の備えの無いところに出ます。そして現地の守将を破り、深夜の行軍で倍の距離を進み、延岑の背後に現れたのです。兵士たちは恐れおののき、公孫樹は驚いて「神か」と言うほどの離れ業でした。

 ここで公孫述が頼ったのは、間諜を使って司令官の暗殺を行わせることです。

 岑彭は野営した地名が彭亡(続漢書には彭亡聚とある)であることを嫌い、陣を移したいと考えていたそうです。この時、刺客が逃亡奴隷と言って偽って降り、岑彭を刺殺してしまいました。

 また、来歙は武都の下弁を攻撃、元は隗囂に仕えていた王元や環安を破りましたが、環安の放った刺客に刺されてしまいます。致命傷でした。瀕死の来歙は蓋延を呼んで後を託そうとしたところ、蓋延が涙を流しているのを見て、「女子供のように泣くようなことがあるか」と叱りつけ、ようやく後事を託して亡くなりました。

 来歙、岑彭は暗殺作戦の犠牲となりましが、それだけでは漢の大軍を防ぐことはできませんでした。呉漢と臧宮が公孫述の弟の公孫恢や娘婿の史興を敗死させるなど、漢軍は成家軍に対して各地で勝利します。劉秀は自分の勢力下に入った土地で、従来と同じような奴婢の解放は恩赦を与え、鎮撫に努めました。



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posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 後漢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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