2020年03月18日

後漢 羌族の撃退 馬援は羌族を攻撃して敗退させると、逃げる羌族を執拗に追い、山頂に追い詰めてこれを破る

 略奪を行う羌族に対しては揚武将軍馬成とともに果敢に攻撃して後退させ、さらに間道を伝って攻撃します。羌族は驚き快走して谷に籠もりますが、馬援らはこれを追いかけたので、羌族は山に逃げます。馬援は自分も山に向かいながら、数百からなる部隊を背後に回り込ませ、夜陰に乗じて火を放つと共に、鼓を打って大軍が攻めてきてるように思い込ませました。乱れたところに馬援らの本体が突入します。羌は地の利を活かして矢を射込み、馬援の脛を貫通させるという抵抗は示しましたが、大敗して千を数える死者を出し、逃げ去りました。馬援は兵が少ないことから、穀物や家畜を鹵獲し、帰国しています。

 朝廷では西方は何度も異民族の襲撃を受けるが、道が遠くて救援もままならないとして放棄を唱える者もありましたが、馬援は上奏して西方には肥沃な土壌がが広がり、多くの固い城があるので、羌族を住まわせれば害をなすことはなくなるだろう、と訴えます。この提言は受け入れられ、多くの異民族が服することになります。中には公孫述と結んで漢を攻撃していた部族からの降伏もありました。馬援は彼らの王をそのまま遺留するよう劉秀に訴え、認められました。

 こうして西方の脅威は多く取り除かれたので、劉秀は揚武将軍馬成の軍を解散させています。

 37年には武都の参狼羌が塞外の部族と共に侵入し、略奪を行います。馬援は4000を率いてこれを攻撃したため、羌は山の上に陣取りました。これに対して馬援は水源と草原を押さえると、守りを固めて戦おうとしませんでした。腹が減っては戦はできぬの金言がある通り、困窮した羌は塞外へ脱出しました。また、戦いの結果、多くの部族が漢に降伏し、その人数は万余に達したそうです。後漢書は、「於是隴右清静(こうして隴右は静かになった)」と称えています。

 山の上に陣取った敵に対しては、麓を囲んで補給を断つのは勝利の鉄則です。一方で、高所に陣取れば高さを利用して防御も攻撃も有利になるので、状況次第で作戦を変えなければなりません。後漢のすぐ後の時代で、同じような議論を見ることになるでしょう。

 西方の憂いがなくなったので、唯一蜀が残ったことになります。


面白いと思ったら押して下さると嬉しゅうございます^^

人気ブログランキングへ
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 後漢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
面白いと思ったら押して下さると嬉しゅうございます^^
人気ブログランキングへブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村