2020年03月15日

後漢 隗囂の抵抗 隗囂は降伏を拒否して西城に立て籠もる 呉漢は城を囲むも、蜀からの援軍に挟撃されて敗退、周辺は再び隗囂の勢力下に

 王遵は隗囂軍の将で旧知の牛邯が漢に降りたいと願っていることを知り、長文の書を送って帰順を呼び掛けます。悩んだ末に牛邯は降ることを決意しました。彼と共に大将13人、県16、10余万の兵が降ったということですので、かなりの重鎮が降伏したことになります。

 また、竇融は五郡の太守、羌の捕虜、異国の歩兵騎兵合わせて数万を率いて参戦しています。

 隗囂は妻子とともに天水の西方に位置する西城へ逃れ、王元は蜀に入って救いを求めました。

 劉秀は「もし手を束ねて自ら来るのであれば、親子ともに無事であることを保証する。高祖(劉邦)が田横に漢に降るのなら田横は王に、その臣下は侯にしようと約束したのと同じである。しかし、もし黥布(英布)のようになりたいと考えるのであれば好きにするが良い」と書を送ります。

 英布といえば、楚漢戦争で漢の勝利に大きく貢献して王に封じられましたが、功臣たちが粛清されていくところを見て自らもまた背き、敗死した人物でしたね。英傑ではありながら終わりを全うしなかった彼の名を出すことで脅しをかけたわけですが、隗囂は降伏しませんでした。

 劉秀は質子の隗恂を殺し、呉漢と岑彭とに西城を囲ませ、自らは東へ帰りました。

 西城は堅く守り、抜けません。そうこうしているうちに、公孫述の派遣した援軍5000が外から漢軍を攻撃します。しかも、この軍は死角から接近して高地に上り、下る勢いで漢軍を攻撃したものですから、包囲は破られ、援軍は城に入りました。

 後漢書の隗囂公孫述列伝は、「会(たまた)ま呉漢等食尽きて退き去る。是に於いて安定、北地、天水、隴西は復た反して囂の為にす」(後漢書3)と記します。おそらくは呉漢を慮って食料事情で撤退したとしていますが、安定などが漢から離脱して隗囂の下についたとあるところを見ると、それなりに酷い敗北を喫したのではないかと思います。ただ、隗囂は牛邯らの寝返りもあり、弱体化したことは間違いありません。


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posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 後漢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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