2020年03月14日

後漢 劉秀の余裕 隗囂、劉秀は公孫述との戦いを控えながら、減税や刑の執行取りやめなどの恤民政策を行い、地方の常備軍も廃止する

 前漢の落ち着いた時代には30分の1税だったのが、戦乱で資金不足に陥り、税率が上がっていたのです。劉秀陣営も遠征を繰り返してはいましたが、彼らは屯田を行っていたため、糧食が確保できるようになっていたのです。
更に、郡の都尉を罷免し、そして列侯を国に赴かせました。思うに、郡に軍の指揮官がいれば地方が不安定になるので、先に都尉を罷免させたのではないでしょうか。

 年が明けて31年の正月、死刑に相当する者以外は取り調べを止め、刑徒を解放する詔を出します。軽微な罪を犯して逃亡中のものは書を出して許すようにせよ、ということも付言していますので、流民が社会を不安定にさせることを防ぐ意味合いが強いのでしょうね。軽犯罪者が大量に解き放たれるのは、それはそれで困るような気もしますが。

 また、3月には地方の常備軍を廃止させます。戦車や軍艦の乗組員も辞めさせていますので、都尉廃止と同じく郡の反乱を防止するためのものですね。ただ、地方で反乱が起こってしまった場合の備えをどうするかは考えなければなりません。このバランスをどう取るのかは、地域を問わず、巨大な帝国につきまとう問題のようです。

 さて、公孫述は隗囂を朔寧王に封じ、援軍を送りました。こうして天下の行方は劉秀対公孫述との状況になったのです。

 秋、隗囂は歩兵騎兵合わせて3万の軍を率いて安定を襲い、また別働隊も派遣して2方面で攻勢にでます。しかし、馮異らが防いだため、利を得ることなく引き上げるしかありませんでした。

 32年には劉秀もまた天水に向かいます。しかし、戦線が膠着したため、劉秀は太中大夫の王遵を呼び寄せます。

 王遵はかつて隗囂と共に挙兵した人物です。しかし、早くから劉秀を優れた人物と認めて帰順を考えていました。そして何度も隗囂に降ることを勧めたのですが、容れられなかったために隗囂の下を去ったのでした。


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posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 後漢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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