2020年03月13日

後漢 隗囂の申し開き 隗囂は戦いは驚いた部下が勝手に動いた偶発的なものだと釈明するが、劉秀は最後通牒を突きつける

 隗囂は「兵士たちは突然大軍がやってきたことに驚いて自分たちの命を守ろうと戦いになってしまい、臣下の囂はこれを止めることができませんでした。ですから、攻撃の好機ではありましたが、自ら兵を引いたのです。今や、私のことはひとえにお国のお心ひとつに罹っております。死を賜れば死を、刑を加えるのなら刑を受けます。もし恩を受ければ、功績をあげます」と詫び状を送りました。

 劉秀の側近はその手紙が傲慢だとして質子の恂を誅殺するよう進言します。しかし、劉秀は偲びず、来歙を派遣して書簡を届けました。大意は以下の通りです。

 「昔、柴武将軍は韓王信に書を送り、陛下は寛仁な方で諸侯が背いても帰順すれば位を戻し、誅殺することは致しませんと伝えた。隗囂は道理をわきまえた者であるからこうして書を送る。不遜に聞こえるかも知れないが、遠回しに伝えればかえって意図が通じないゆえ、はっきり伝える。今後手出しをせず、隗恂の弟もまた洛陽に送るのであれば、爵祿はそのままとする。私も40歳になろうとし、軍の中に身を置くこと10年にもなる。もう上辺だけの言葉には飽き飽きした(「淫語虚辞に厭きたり」『後漢書』)。従う気がないのであれば、連絡は不要である」

 隗囂のらりくらりと劉秀を交わし続けることは不可能と知り、漢との離反を決意して公孫述に使者を送って誼を通じました。

 同年9月には日食が起こります。これを受け、10月に「私は徳が薄く、知恵も足りぬ。賊が害をなし、強きも弱きも相争い、人民は住む所を失う。『詩』に、日月が凶兆を示せば其の行いを正せ、という。自分の咎を思うと心に思うことがある。公卿に勅命を下し、賢良と方正を1人ずつ挙げさせよう。百官は封事(密封して天子に出す書)を出すように。隠してはならない。役人たちは職に励み、方に従うこと」と詔を出したことを皮切りに、11月には新の時代に役人で奴隷にされた者のうち、漢の法制では罪に当たらない者を解放させ、12月には10分の1税を取りやめて30分の1税を復活させて人民の負担を軽減しています。


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posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 後漢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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