2020年03月10日

後漢 孤立する蜀 蜀は優れた技術で塩を自給できた他、貴金属の産出量も多く、中央からは天険に隔てられているため、公孫述は蜀に籠る

 ボーリングで発生する土塊は竹筒と複動式ピストンふいごで除去されました。穴が完成すると竹で裏打ちされました。

 井塩から組み上げられたのは、塩水ばかりではありません。塩水が湧く場所では、天然ガスもまた多く産出します。塩水層の下にメタンがたまりやすいのです。天然ガスは遅くとも前4世紀には利用されていました。その天然ガスを燃やして塩水を煮詰めたのです。

 公孫述は険阻な蜀に拠り、中央へ撃って出ようとはしませんでした。騎都尉の荊邯は撃って出て劉秀と戦うことを主張したのですが、公孫述は容れませんでした。

 しかし、劉秀が蜀以外を支配下に収めれば、次のターゲットが蜀になることは火を見るより明らかです。仮に公孫述の時には国を保つことができたとしても、蜀のみとその他全土を抑えた劉秀では、どちらがどちらを飲み込むかは明白ですね。馬援が「井の中の蛙」と評したのも頷けるでしょう。

 劉秀は隗囂に公孫述討伐を要請します。しかし、隗囂は力不足を理由に拒否しました。隗囂が劉秀とその他の勢力を両天秤にかけようとしていることを悟った劉秀は、相互対等な敵国の礼を改め、君臣の礼に変えました。

 29年、劉秀は来歙を隗囂のもとへ派遣し、重く封じることを約束して隗囂の入朝を求めました。しかし、隗囂は自ら赴くことを望まず、結局、長子の隗恂を質子として洛陽に送ることとします。隗恂は馬援と共に洛陽へ向かいました。

 洛陽についた馬援でしたが、隗囂の配下ということで仕事が与えられず、無聊をかこつことになります。馬援は連れてきた客が多いことから、関中で屯田を行うことを申し出て、許されました。そして屯田を行う傍らで、何度も隗囂に書簡を送って劉秀への帰順を説きます。

 ところが、その頃、隗囂は馬援を疎ましく思うようになっていました。かつて共に寝るほど馬援を信頼していた隗囂でしたが、馬援が不在となった間に讒言を吹き込まれ、馬援を疑うようになっていたのです。劉秀に降るべきだとの馬援の書簡は、自分を劉秀に売り渡そうというものに見えたのかも知れません。隗囂は劉秀にはつかないことを決めてしまいました。


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posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 後漢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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