2020年03月09日

後漢 荊州(楚)対応の完了 独立していた李憲、秦豊、田戎らを次々と破り、南方を平定する 残るは隴西の隗囂、蜀の公孫述となる

 同じく28年には、漢は南方での作戦を継続させています。

 この年の主な攻撃対象となったのは、李憲という地方の官吏だった人物です。李憲は23年に自立して淮南王を、27年には天子を自称しており、その勢力は10余万にもなっていました。

 劉秀は馬成を派遣して李憲の籠る舒を囲みます。29年正月、舒は陥落し、李憲は城から逃れましたが、彼の部将たちは主を斬って降伏しました。

 28年には秦豊、田戎を続けて敗北させてもいます。29年に秦豊は捕斬され、田戎は逃げて蜀に入り公孫述に保護されました。

 こうして29年には江南から華南までが劉秀の勢力下に入ったのです。

 余裕ができてきたからか、29年には高等教育機関である太学が設置されます。太学は前漢武帝の時代に董仲舒の献策で設置されたのは始まりです。長安に置かれていたものを、洛陽で復活させたのです。

 官僚養成機関として太学は大いに発展し、後には3万人もの学生を抱えるようになっていきます。

 さて、楚(荊州)が劉秀の軍門に降ったことで、最大の敵は蜀に籠もる公孫述となりました。

 公孫述は自立してはいましたが、険阻な蜀に拠って勢力を保つだけで満足していました。

 蜀は険阻な山によって関中からのアクセスが制限されており、銅、鉄、銀が産出する豊かな土地でした。豊かな金属資源を背景に、30年には銅銭を廃止して史上初の鉄銭を鋳造しています。鉄銭は白なので、成家が尊んだ色と合いますね。

 また、井塩があるため、中央との連絡が途切れても大きな問題はありませんでした。塩は人類のみならず生物の生存に必須のものです。塩を手に入れるための努力はこれより前から熱心に行われていました。前1世紀には鑿井が行われており、その深さはなんと1440メートルにも及んだそうです。ボーリングの道具には竹を使い、先端には鋳鉄製のドリルビットが付けられました。ビットを引き上げるレバーに飛び乗り、次いで飛び降りることで岩を掘り進めたのです。ドリルビットを少しずつ回転させることで、穴は円形となりました。


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posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 後漢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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