2020年03月07日

後漢 馬援 戦国時代趙の名将趙奢の子孫の馬援は率先垂範で周囲から慕われるリーダー資質にあふれる人物だった

 呉漢の軍は、楚では略奪を繰り返しました。劉秀の姉を娶ったケ晨の兄の子ケ奉が、故郷の南陽が略奪を受けるのを見て劉秀に背いたほどでした。劉秀と親しい間柄の者ですら背くことを決意するとは、かなり酷い行動が繰り返されたのでしょう。

 ケ奉は南陽の諸将と共に漢を攻撃し、27年に劉秀は自ら討伐に向かい、ケ奉を敗死させています。

 28年、劉秀のもとへ隗囂から馬援という使者がやってきます。馬援は隗囂のために、劉秀の内情を探りにやってきたのです。

 ここで馬援について記しておきましょう。

 馬援の祖先は、閼与の戦いで圧倒的な力を持つ秦を打ち破った趙の名将、趙奢に遡ります。趙奢は馬服君に封じられたことから、その子孫は馬服君から「馬」を姓としたのでした。曽祖父の馬通は巫蠱の禍で乱の平定を鎮圧する功績がありましたが、江充と親しかったことから処刑されることを恐れて反乱を起こして殺され、一族は仕官が禁じられました。

 彼は幼い頃から大望を抱いていたのですが、兄たちは馬鹿げたことだと思っていましたが、ただ1人、馬況だけは弟を認めていました。馬援は名家の生まれらしく『斉詩』を教えられますが、一章一句の読み方に拘泥する訓詁学を嫌い、牧畜を希望しました。馬況は「お前には大望がある。大器は晩成する(『論語』)ものだ。暫くは好きにするのがよい」と、馬援の行動を認めてくれました。

 馬援の父は既に亡くなっていたので、馬援はこうやって兄に頼ったのです。しかし、ほどなくして馬況が死んでしまったため、馬援は兄嫁の面倒を見ることになりました。そして、新が滅んだことで馬一族の出仕が可能となったため、馬援は郡の督郵となりました。

 ある時、囚人の護送をしていた馬園は、囚人に同情して囚人を解放し、北方へ逃げました。北方ではその地方の主となり、牧畜と農業でそれなりに実力を得ましたが、得たものは「財を得たなら施すものだ。そうしないと、財の虜になるばかりである」と言って周りの者に分け与えました。そして、自分は質素な姿のまま仕事に集中したので、ますます人々は馬援を慕うようになったのです。


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posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 後漢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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