2020年03月03日

後漢 彭寵の反乱鎮圧 彭寵を劉秀側に立たせた耿弇が彭寵鎮圧に当たる 彭寵は敗北して地方へ追い詰められ、奴婢に殺されて反乱は自滅する

 その討伐に向かったのは、彭寵を劉秀側に付かせるきっかけを作った耿弇です。しかし、耿弇は進軍することなく、洛陽に上書します。というのは、彼の父の耿況は彭寵と親しかったので、共に背いているかもしれないと疑ったのです。そして、自分の父も背いているかもしれないという状況で自分が討伐に向かっても疑念を抱かれるのではないかと恐れたのです。

 劉秀は、「将軍は自らをはじめ一族をあげて国のために尽くし、戦えば敵を破り、功績は顕著である。何を疑えというのか。同僚の王常と共に涿郡に向かい、そこで作戦を立てるように」とその不安を一蹴しました。一方の耿況は劉秀のもとへ一族から人質を送ったので、劉秀と耿一族のつながりはむしろ強まりました。

 後顧の憂いを断った耿弇は反乱鎮圧に向かいます。彭寵は匈奴の兵2000も援軍に迎えていたのですが、耿弇の弟の耿舒はこれを攻撃して破り、匈奴の2人の王を斬ったため、彭寵は退却するしかありませんでした。

 彭寵のその後の栄華は長くは続きませんでした。29年、彭寵は奴僕に殺されてあっけなく自滅したのです。奴僕の子密らは彭寵の寝室に入り込むと、ベッドに縛り付け、彭寵の妻に袋を2つ縫わせます。財宝を奪い、逃走のためウマを用意してから彭寵の手を解き、城門を通過する手形を書かせます。そして、文書ができあがると、彭寵とその妻の首を刎ねて袋(彭寵の妻が作らされたものですね)に入れると、劉秀に降ったのです。燕では彭寵の子の彭午を立てて抵抗を続けようとする者もありましたが、国師の韓利は彭午の首を斬って降伏しました。彭寵の一族は誅殺され、子密は不義侯に任じられました。不義侯という名から、劉秀の複雑な思いが見て取れますね。

 やや先走りましたね。26年に戻りましょう。

 耿弇は彭寵との戦いが一段落つくと、続いて斉で自立していた張歩の討伐に向かいます。耿弇来襲を聞いた張歩は歴止と祝阿に軍を配置し、鍾城に軍営数十を連ねて待ち構えました。耿弇はまず祝阿の城を攻撃すると、正午までに城を落とすという快挙を成し遂げました。

 守備側は防衛線に沿って守りを固めなければなりませんが、攻撃側はその中の一点を破ればよいわけですから、攻撃側の有利さが際立った形ですね。

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posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 後漢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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