2020年03月02日

後漢 赤眉集団の戦後処理 劉盆子らは許され、多くは寿命をまっとうする 彭寵、かつての部下ばかりが重用されることを恨み、背く

 劉盆子他、赤眉の指導者は皆許され、邸宅を与えられて洛陽に暮らしました。

 赤眉の指導者たちについて先に述べてしまいましょう。劉盆子は趙の郎とされたのですが、後に失明してしまいます。その後、滎陽の均輸官の地位を与えられて税で暮らしました。その没年については記録が残っていません。徐宣、楊音らは故郷に帰って天寿を全うしました。樊崇、逢安らは翌年に反乱を起こし、誅殺されています。

 反乱の首謀者であっても、降伏した者は許されたのですね。関中を破壊し尽くし、人が人を食むような状況を作った類の人々に対して、甘すぎる気がしないでもありませんが。

 なお、赤眉の兵士たちは、銅馬集団などと同様に劉秀軍に編入されたと考えられます。これによって劉秀軍の規模は一気に膨れ上がったことでしょう。

 馮異は赤眉を逐った後も関中に残ります。そして、赤眉に引き続いて延岑を攻撃して破りました。延岑は更に弘農でもケ曄らに敗北し、南陽へ逃走しました。

 関中の最大勢力だった延岑が消えたことで、新たに最強となったのは劉秀です。劉秀の軍は軍律を守ったこともあり、多くの豪族は劉秀に従うようになりました。

 新たに従う者が現れれば、離れるものも現れます。同じく26年、漁陽の彭寵が背いたのです。

 彭寵は劉秀の河北転戦時、劉秀側に立って部下の呉漢や王梁を派遣していた人物です。彭寵はかつての部下ばかりが重用され、自分が日の目を見ないことに不満を抱いたのです。しかし、呉漢らは戦場を疾駆して目立つ功績を上げているわけですから、多少なりとも扱いに差が生じるのは仕方のないことです。

 どう見ても、逆恨み以外の何物でもありませんね。男の嫉妬ないしルサンチマンはしばしば男を破滅に追いやるものなのです。

 彭寵は塩鉄官の集めた資材を自分のものとして財を貯めるようになりました。そして、匈奴に美女や絹織物を送って親しみ、これらを元に反乱を起こしたのです。そしてかつての燕の首都の薊を落として燕王を名乗りました。


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posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 後漢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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